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こんな姿を万が一にも客に見られでもしたら。
「哥さん、みっともないですよ」
転がった玉露のそばで膝を折り、うっちゃられた扇子に手を伸べながら、紅花は心配を口にする。
形ばかりの風を送った。
うだる暑さに客入りが皆無に等しくとも、絶対来ない保証もない。
二階に行くにはここの廊下を通らないわけにはゆかぬ。
「知ったことかい。あたしを買いに来たんじゃ無し、見られようが構やしないね」
と、玉露は大口叩いて応じるが、実際は言葉通りではないだろう。
彼の矜持はそれほど安くはないはずである。
咄嗟に隠れようとして猫の額ほどしかない坪庭の池に飛び込みでもしなければいいが。
噂をすればなんとやら。
とは、少し違うが、ちょうどそこに表側から廊下を渡る足音が聞こえてきた。
シタシタと裸足ではない足音は、茶屋の従業員のものと違う。
紅花はドキリとするが、玉露は億劫そうに首をそちらへ曲げただけだった。
「これはまた随分と盛大にだらけておいでですね」
笑みを含んだ爽やかな声音は探偵業を営む青年のものであった。
「トキワさん」
「やあ、紅花くん。団扇を持ってご奉仕かい。まるで宮女だね」
以前、紅花は明朝時代の後宮を描いた絵巻を見せて貰ったことがある。
そこでは皇太后なる女性が女王のように豪華な衣装で玉座にふんぞり返り、
細身の美女たちが幾人も傅いて、孔雀の羽の大きな団扇で女主人に涼を送ったり、妖しい煙を立ち上げる香を焚いたりしていた。
トキワのいう『宮女』が果たしてそれと同じものを射しているかは不明だが、
紅花の頭に浮かんだのはその情景である。
似ているような……、いや、廊下に大の字に寝転がった玉露に皇太后の威厳はない。
返答に困って曖昧に微笑む紅花の横で、玉露はふんと鼻息を吐いた。
相も変わらず図々しいの、今更でしょうだの、彼とトキワは毎度変わらぬ応酬をひとしきり行う。
その間にちゃっかりとトキワは腰を落ち着け、湯呑に残っていた緑茶で喉を湿らせた。
これまた毎度のことながら、速いテンポのやり取りについて行けずにいた紅花は、
惰性で仰ぐ動作を続けていた手から扇子を放り出し、慌てて腰を浮かせる。
茶屋の親父に言って冷や麦でも貰ってこよう、いやその前に上から座布団を取ってこようと、無暗なたたらを踏んだ。
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