四幕の三・烈火

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そう、かつて猪田は斯様に愚かな行いを実践したことがあるのだ。 それも、玉露への断りもなしに、である。 玉露が鳳ノ介の同席を知ったのは、偶々紅花が階下を手伝いに行って猪田と鉢合わせた、当日の昼間のことである。 猪田より更に、と言うより誰とも比べようもないほど冴えない男である篠山を主役に据えながら、華やかさ極まる歌舞伎役者を脇役に立て、紅花を可愛らしい添え物にしつつ、自身の美しさも存分に発揮して周囲を魅了して、尚且つ地味に過ぎる篠山に花を持たせる―― という無理難題をいきなり吹っ掛けてきたのである。 言うまでもなく、猪田にそんな悪巧みがあったわけではない。 概ね善意で、思い付きだ。 そしてどこまでも気の利かない無神経ぶりなのである。 結果は散々たるものであった。 が、それにも猪田は気づかなかったであろう。 玉露は腹に据えかねるものがあったはずだが、言ったところで理解の及ぶ相手でなし、暖簾に腕押し糠に釘であるからと、当人には何も言わずじまいとなった。 これはもしや、あの時の意趣返しなのではあるまいか。 猪田に先立って訪れた鳳ノ介を前にした時、紅花はそう思わずにいられなかった。 となれば、襟巻の贈り物も、何やらそれらしい理屈をつけてはいたが、実際のところはやはり単なる嫌がらせなのではないか。 そう、疑りをかけた。 が、その場で真意を問い質せようはずもなく、紅花はそそくさと座敷を下がろうとしたのであるが、 「あんたは(あに)さんのお相手だよ」 と、玉露に言いつけられ、その場に居残ることとなった。 間もなく猪田がやって来て、ヤニ下がったご機嫌面を覗かせる。 「ト、トリスケさん!?」 声を裏返して鳳ノ介の愛称を呼ぶなり、口をあんぐりさせて棒切れのように立ち尽くしてしまった。
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