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途切れがちな一言を発したきり、平素、黙ると死んでしまうのではないかという程に喋り通しの喧しい男が、声を失くして固まってしまった。
「そう、襟巻」
男の耳たぶに息を吹きかけんばかりに身を寄せて、玉露は猪田に囁く。
肩口にすり寄せた手を、襟巻を捧げ持った格好で静止している猪田の腕の線に沿わせて、撫で摩るように手首に向かって這わせた。
それと同時に彼は流し目を紅花に投げて寄越す。
瞬間、紅花はハッとして、見る者もなく披露目していた踊りを仕舞った。
下がれの合図である。
すぐさま殆ど音も立てずに、座敷に膝を折ると形だけの挨拶をする。
三つ指ついて伏せた額を上げる頃には、もう玉露の目は猪田に戻っていた。
濃い睫毛を簾にした色っぽい目つきで、猪田のこめかみの辺りに視線を注ぎながら、這わせた手を器用に動かし、五指を絡めていっている。
「今時分にはなかなか置いてなくってねぇ。あちら、こちら、随分歩き回ったんだよ。どうにもならなくって、相談しなけりゃならないくらい」
耳元に囁きかけながら、しどけなく玉露は猪田に半身を預けた。
かと思われたが、何を思うか、彼はそのまま空いている方の腕を伸ばし、鳳ノ介の飲み残した盃をくいと傾け、喉を潤した。
「……なんて、まさかねぇ、俥もなしに歩くはずがなし、手前で探して見つけたんだけどね」
ふっと、酒の香気漂う息を今度こそ猪田の耳に吹きかけ、赤い唇がキュウっと形を深い笑みに変えるのが、障子戸を閉ざそうとする紅花の目に印象的焼き付いた。
カタリと小さな物音を残して閉じ切る寸前、猪田の顔色が見る見ると変わっていくのを目にするまでは。
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