四幕の三・烈火

8/13
前へ
/602ページ
次へ
その後である。 命じられるまま座敷を辞した紅花は、一度は床に就いたものの、まるで寝付ける気がしなかった。 ほくそ笑むような玉露のあの唇。 完璧な笑みの形は、妖しく扇情的で、陰間として男を相手取っている時には玉露のよく見せる表情である。 真っ赤に紅を注した色がいかにも婀娜っぽく、それでいて、口角のキュッと締まったぼやけたところのないさまが、卑俗さとかけ離れた艶美を匂わす。 自身の美しさを知り尽くし、魅せることに矜持を抱く、娼妓の凄みを感じさせる笑み方だ。 その鮮烈なまでの表情と、呆けていた猪田の見る間に変わりゆく顔色の対比。 それが、紅花の心をざわつかせた。 あれはどういう気色(けしき)だったのだろうか。 そこから破顔するようにも、憤怒の形相に変わりそうにも感じられた。 猪田は単純な男だから、寒くなっても会いに来て欲しい、転じてずっと共にありたい、という、冬物の贈り物に込めた意図に気づいたかどうかも疑わしい。 だが存外、遊び慣れた男でもあるから、そのくらいは遊び人の勘の良さで察しがついたやもしれぬ。 だとすれば、素直に喜ぶことであろう。 けれども、『今さら』そんな初手じみた熱を込められれば、逆に不安になるという、奥に潜めた毒に気づくことはあるのだろうか。 玉露が見込んだくらいだから、あの男にもそのくらいの知恵は回るのだろう。 ただ何しろ鈍感なので、気づくのは幾分、後になってからかもしれぬ。 そうであればいいと願った。 少々ねんごろになり過ぎた仲に、ささやかな着火剤である。 時間が経ってからふと気づき、焦りを覚えて一層深みに嵌るという、見事な躍らされっぷりを発揮するのが猪田らしかろう。 けれど。 あの場に鳳ノ介を招じ入れていた玉露の意図を、つまりはいつぞやの仕返しだということを、猪田が不意に悟ったとしたら。 その場合はどうであろう。 襟巻のことも嫌がらせだと気づいてしまうのではないか。 少なくとも、紅花の中では今回の玉露の所業は『意趣返し』であるとして片がつきかかっていた。 それであの時、紅花が退室する寸前、猪田が顔色を変えていたのだとしたら、それは怒りの為ではあるまいか。 いくらなんでも客を怒らせては拙いのではないだろうか。 紅花はそれが気掛かりであった。 玉露がそんなヘマをするとも思えないが、相手が猪田であるだけに、手管が通じ損なうこともありそうで心配である。 千年来の化け狐よろしく、さんざ(ひと)(たぶら)かし(もてあそ)びして慣れ過ぎた玉露のこと、時に手の込み入った(かた)りの複雑さを、相手が理解できずに失敗してしまうこともないではない。 少し様子を見に行こう。 床に就いて幾らも経たないうちに、紅花は布団を抜け出し、足音を忍ばせて奥の隠し部屋へと急いだ。
/602ページ

最初のコメントを投稿しよう!

212人が本棚に入れています
本棚に追加