四幕の三・烈火

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紅花が丁度、座敷を見透かす障子窓に顔を寄せた時である、ガシャンと物のぶつかり合うような物音が立ち、思わず紅花は飛び上がった。 咄嗟に漏れそうになった悲鳴を慌てて両手で塞ぎ、次いで恐る恐る様子を窺う。 衝立に仕切られた寝間にはまだ、火が灯されておらず、薄い和紙はただ和紙のまま、透かし見える光景はなかった。 人の気配が壁ごしに感じ取れるのみである。 どうやら物音は、蹴倒された膳に乗っていた徳利やら小鉢やらが、ぶつかり合って立てたものらしかった。 と言って、猪田は意図して膳を蹴り倒すような荒くれではない。 立ち上がった拍子に膝が当たるかして、ひっくり返したのであろう。 慌てたように猪田を引き留める玉露の声がする。 これはいよいよ、自身の不安が的中したものと紅花は察した。 猪田が激高して手をあげる部類の男とも思われないが、実際のところはどうか分からない。 当たり前のことである。 普通、機嫌の悪い状態で客は玉露と過ごさない。 痴話喧嘩くらいはするかもしれないが、それとて閨事に移る一定の所作のようなもの。 娼妓の前では気前のいい男ぶりを発揮する客でも、家庭では実は酒乱ということもあり得なくはない。 本気で怒った猪田がどう豹変するか、それは紅花は愚か、玉露とて知らぬことなのだ。 透かし見えぬ和紙を睨んでいても仕様がなく、聞き耳を立てる紅花は固唾を呑んだ。 もしも、猪田が怒りに任せて暴力を振るうのならば、すぐさま飛び出して止めに入らねばならぬと思った。 しかし日頃の猪田の性格はひょうきんなお調子者であるから、あまり想像がつかない。 怒るよりはその場で落ち込んでしまいそうでもある。 そのせいで、幾らか揉めているような物音が聞こえはするものの、紅花は動けずにいた。
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