四幕の三・烈火

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「ちょっと、およしよ。何もそんなに――、痛いったら」 そんな玉露の声が聞こえ、これはいよいよ拙いと紅花が手に汗を握った時、フッと障子の向こうが明るくなった。 床延べられた衝立の内側に、明かりが灯されたのである。 おや、と思って顔を寄せると、猪田がマッチを吹き消す姿が朧気に見えた。 金朱色の派手な打掛(うちかけ)が肩肌脱ぎに乱れた玉露が、枕辺に突っ立っている。 そのすぐそばに、猪田が布団を尻に敷いて胡坐を組んだ。 紅花からは背中側しか見えないが、その様子は怒り狂っている者のそれには感じ取れない。 いや、そうでもないのかもしぬ。 猪田は急に肩を落とすと、ムシャクシャと自身の頭を両手で搔いた。 太平楽な男らしからぬ仕草である。 一頻り発散すると、男は玉露に向かって両腕を広げて高く差し出した。 それは親に抱っこを強請る子供の仕草そのもので、つまりは抱擁を求めてのことであろうが、救いを求めるようでもあった。 ふうっと玉露がひとつ、嘆息する。 「なんだい、忙しないねぇ」 言いながら、求められるままに膝を折り、向かい側から猪田の肩を抱きしめた。 その際、紫を刷いた目元が、ほんの一瞬、紅花を見据えた。 そんなはずはない。 小部屋の窓に貼られた紙は、明るい方から暗い方へと景色を透かし見せはするが、その逆はないのである。 言うまでもなく、隠された部屋に明かりはない。 暗所を苦手とする子供なら数分と居られぬ闇である。 「怒ったかい?」 紅花がドキリと心臓を跳ねさせる間に、玉露は鋭い眼差しを閉ざしていた。 頑是ない子をあやす母親の如く、抱いた猪田の背を撫で摩りながら、向かい合わせに頬を寄せている。 「それとも、ちったぁ堪えたかい」 「堪えますとも」 二つ目の問いかけに、猪田は悄然とした声を発した。 「随分酷いやり口だ。まあ、察しの悪い僕も不可(いけな)かったんでしょうけどね。襟巻って。襟巻ってなんですか。次の冬もそのまた次も会いに来て頂戴なって、初心にも程があるでしょう。呆気に取られて言葉も出やしませんよ」 意外や意外、あの一瞬で猪田はそこまで理解していたのである。 紅花は内心で少々男を見直した。 が、生憎とその奥の意図までは咄嗟に汲めなかったらしい。 酔いの回っている三十路男は、酔漢が管を巻くのとまったく同じ口ぶりで、うだうだと文句をのたまわった。 玉露はそれを胸の辺りで受け止めながら、猪田の背を撫で続けている。 ヒック、と猪田はこれまた酔漢らしくしゃっくりした。 「だからって、あんな煽り方があるもんですか。散々歩き回った? 相談相手が必要だった? それでトリスケさんとの仲を見せつけて、トキワさんともしっぽり散歩を楽しんだって、そんな言い草ないでしょう」 「別にそこまでは言ってないじゃないさ。大哥さんを呼んだのは、ちとやり過ぎだったけどさ」 あまり反省していない口ぶりで玉露は言う。 唇がつんと尖っていた。 「玉露さんがこんな悪どい手口を使うとは思わなかった」 「昼間っから急にあたしを外出させた報いだね」 「冗談じゃない。そのくらいでこんな仕返し、酷過ぎますよ」 「冗談じゃあ、ないからね」 不意に、二人を包む闇が深まったよう紅花には感じられた。 それは一瞬のことで、実際には灯された明かりが夜風に揺らいだのであろう。 じわりと残る蒸し暑さに、鳴き遅れた蝉がジジジと羽を震わす音が聞こえた。 明るさが戻る瞬く間に、光景は一変していた。 「あっ」と紅花の口から声が漏れそうになる。 それを無理やり呑み込んで、紅花は一層目を凝らした。 「愛想が尽きたとそう仰るんで? 今頃になってそんな手管にゃ引っかかる僕じゃありませんがね」 そう言う猪田は、仰向けに倒れた玉露の上に圧し掛かっていた。 体勢が変わったことで、紅花の目にも猪田の表情が映る。 俯いた顔のすべては見えなかったが、余裕ぶった言葉と裏腹に、険しい表情をしているのが見て取れた。 その目はかつてなく獣じみた光を宿している。 灯火のメラメラと燃えるのが映りこんでいるせいばかりだろうか。
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