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「チョット、お止しよッ。出てっておくれッ。冗談じゃないったらッ」
酷く切羽詰まった声が響いてきた。
玉露の声である。
暑さと眠気で暈っとしかかっていた紅花は、ハッとして声のした方へ顔を向けた。
見開いた目で襖を見やる。
持っていたハタキの柄を強く握った。
咄嗟に浮かんだのは潮の顔である。
『梅に鶯』の店主の親父の盆暗息子だ。
以前は勝手に玉露の私室に上がり込んで狼藉を働くことが度々あった。
その潮が占部と鉢合わせて痛い目に遭ったことは、紅花の与り知らぬ出来事である。
ここのところなりを潜めていたが、またぞろろくでなしぶりを発揮しに来たかと、咄嗟に紅花は思ったのだ。
立ち向かって勝てる相手でないことは既に実証済みであったが、それでもなお、少年は黙って見過ごすわけにはいかぬと、
さして武器になりそうもないハタキを両手に握り直して唇を引き結んだ。
健気なものである。
細腕に武器を構えたところで、そのままの姿勢では襖を開けることは出来ぬ。
そこに気づけぬ愚かさも、いじらしく思える真っ直ぐさだ。
少女のように愛らしい顔を毅然とさせて、怖じて震えたがる脚を奮い立たせて、紅花はむんと暑い細長い廊下を玉露の部屋の前へと急いだ。
そこに、襖を蹴倒さんばかりの勢いで玉露が中から飛び出してくる。
エイヤっと、咄嗟にハタキを振り下ろした紅花は、
「あ痛っ」
という間抜けな玉露の声に目をまん丸くした。
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