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正面の文机には、少し前まで玉露が眠っている間に作ったのだろう、涎だか汗だかの水たまりがある。
その向こうで梅盆栽が、四角い竹細工の籠に収まって、我関せず青々と葉を茂らせていた。
上方に格子窓に区切られてくっきり青い空と白い雲とが見えている。
蜂はそこから迷い込んだに違いない。
入ったと同じように、出て行ってくれればよいのだが。
紅花は尻もちをついた折に右手の下敷きになっていたハタキを持ち上げる。
これで追い立てれば逃げていくだろうか。
考えてはみたけれど、いかにも頼りなく感じる。
刺されては堪ったものではない。
「やっつけたかい⁉ 早くしとくれよッ」
廊下の奥からは襖を隔てた声が急かす。
やっつけるなんて土台無理な話である。
オロオロと意味なく辺りを見回した紅花は、ともあれ近くに飛んでくることがないよう、玉露の部屋の襖を閉めた。
蜂も怖いがそれ以上に、玉露の怯えっぷりに中てられて、紅花もまた慌てふためいている。
気もそぞろなままに、誰か助けを呼ぼうと取り急ぎ階下に向かうことにした。
わたわたと先ほどの玉露ではないが、今一つ膝の据わらぬまま腰を上げて廊下を急ぐ。
それが、良くなかった。
俗にウナギの寝床などと呼ばれる商家の、細く長い廊下の一階と二階を繋ぐ階段は、
薄暗く、手摺もないのに急角度なのである。
上がるにしたって気を抜くと脛を打って転びかねないし、ましてや降る時には足先に注意を払わねばならない。
それを、紅花はまるきり浮足立ったまま駆け下りようとしたのである。
あっ、
と思った時にはもう、届く先に地面はなかった。
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