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そのことは、少し寂しくもあり、ホッとすることでもあった。
見舞いなど来てくれずとも、あの目覚めたときに玉露が居てくれたこと、それだけで十分過ぎるほど彼の思いは伝わっている。
きっと親父の女房が見舞いから帰ってくるたび、「あの馬鹿は元気にしてたんだろうね。頭打ってちったあ賢くなったのかい」などと、
憎まれ口混じりに気を揉んでいることだろう。
それでいて、夜の仕事には一切の支障を来さぬだろう。
何ものも、彼を乱しきりはしない。
何事も、彼を損なわせはしない。
恋も、人情も、彼を覆し得はしない。
その確固たる自立が、紅花を安心させる。
実際には誰かが運んでやらねば朝飯も取りにはゆかぬし、湯浴みも誰かが沸かしてくれるのを待つばかりだし、
掃除も布団干しもちゃんちゃら可笑しいとでも言うかの如く全く自分では手を付けないし、
陽のあるうちはぐうたらぐうたらと、身形ひとつ整えずに怠惰を極めるばかりで、仕事以外はとんとできぬ人である。
仕事にしたって客ありきの話で、色売りの他は何も出来ぬに等しい。
職人にも商人にもなれぬ。
常に他人の世話になり、自立とは程遠い人物なのに、けれどもとてもシャキッとしている。
紅花が遠く玉露を想う時、その姿はいつでも一人で、一人きりで、誰にも頼らずすっくと立っているのである。
眦高い切れ長の双眸に宿る黒々とした瞳は、恐れを知らぬ。
けれどそれは紅花の思いの中の玉露であって、現実の彼を前にすると幻滅するほどだらしない。
恐いものを知らぬどころか、蜂一匹で大騒ぎする始末だ。
そのくせ一度客前に出れば、何度目にしても息を呑むほど美しく、凛然として気高い。
万が一、そこに蜂が飛んで来たところで、スッと流した眸に映したぎり、眉ひとつ動かさずに意識から葬り去るであろう。
あまりの落差にクラクラと眩暈がしそうな程だ。
惹かれてやまない。
キュウとする胸の痛みが、家族を思う痛みとすり替わったことに、
紅花は気づかぬままに茫洋と安息に身を委ねた。
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