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退院の日に訪れたのは、『梅に鶯』の親父でもなく女房でもなく、従業員でもなければ無論、玉露でもなく、
かと言ってトキワや猪田のような些か客と娼妓という枠からはみ出し気味で玉露の使いにされても不思議のない顔見知りでもなく、
意外な人物だった。
スラリとして女性にしては背が高く、小ざっぱりとした洋装をしたその人は、
花屋『天満堂』の女主人であった。
「迎えに来たよ。痛いところ無いかい。ほら、立ってごらん。くらくらしたりふらふらしたりしないかね。あちこちぶつけたんだろう? 何日か寝てたくらいで治るのかしらね。あの医者、藪じゃなければいいけど。ま、安心しなさい、いい医者だから。うちもお世話になっててね。そのついでだよ、気にしなさんな」
筋の通っているようないないような、吟味する間もない早口でまくしたて、彼女はにっこりと紅花に手を差し伸べた。
紅花は戸惑いつつも女の手を借り、寝台を降りる。
床から高さのある「ベッド」というものは、どうにも不慣れで初めの頃は寝返りを打つたび、落っこちやしないかとヒヤヒヤした。
が、それも今日で終いである。
昨夜のうちに店主の女房が荷物をまとめてくれていたので、紅花はそれに手を伸ばそうとした。
が、『天満堂』の女主人がサッと先に掻っ攫ってしまう。
「病人に荷物なんざ持たせないよ。あ、もう病人じゃないのか。いや、元々違うか、怪我人だっけ。まあどっちにしろ任せなさいな。表に車を待たせてあるから、さっさと行くよ。足元に気を付けて。慎重に、出来るだけ静かにね」
ちっとも静かでない相手に、急かされているのか逆なのかわからない言葉で促されながら、紅花は手ぶらなのを申し訳なく思いつつ着いて行った。
来る時は気を失っていたので、院内を歩くのは初めてである。
物珍しく、キョロキョロしたいのを我慢した。
居るのはみな、傷病人かその縁者か、医者か看護人なのである。
顔を合わせるのも気まずく、あまり見回しては非礼になろう。
何より、そういう振る舞いを玉露は良しとしない。
監視などされておらずとも言いつけは守る、紅花は素直で正直な少年なのである。
それを知ってか知らずか、真面目くさった顔で少々おっかなびっくり着いてくる紅花を、女主人は「ふふふ」と笑った。
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