五幕の一・色打掛

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今宵、玉露の客は(よわい)七十七(しちじゅうしち)を迎えた老爺で、 十人ばかしも人を集めて宴席を設ける予定である。 喜寿の祝いだ。 長寿は目出度く、祝いの宴席を持つのも宜しかろうけれども、 それを陰間茶屋で開こうと言うのは(いささ)か変わった御仁である。 まあ、古き良き趣味人であろう。 何やら大恩ある相手だとか珍しく玉露が言っていた。 その酒宴の席で、紅花は(うた)を披露する手筈となっている。 三味を抱えての謡曲である。 一頻り雑用を終えた紅花は、襦袢で寛ぐ玉露を前に、出来栄えを見て貰っていた。 格別器用ではないけれど、真面目が取り柄の少年である。 三味の腕は一級ならずとも、練習の甲斐あってまあそれなりには仕上がっている。 問題は唄であった。 巷を流れる流行歌ならいざ知らず、謡曲は朗々と歌い上げるが基本。 まだ声変わりもせぬ小僧っ子の唄声は、いかにも細く迫力がない。 音程は取れており、伸びもあるが、それだけである。 情感とは程遠い。 どうせ酒席の合間を埋めるだけのものであるから、 お披露目したとてろくに聞いている者はない。 どうでも良いと言えば良いのだけれど、それで手抜かりを許す玉露ではなかった。 尤も、紅花もまた、別段手を抜こうとはしていない。 繰り返すけれども、概ね真面目な少年なのである。 ただ、頑張っても上手くなるとは限らぬというだけだ。 玉露は片眉を高く、もう片方の眉は低く捻じ曲げたヘンテコな表情で不服を表しつつ、 もはや熱心に指導する気概も削がれたとばかりに文机に片肘をついて、紅花の懸命に謡うのに耳を傾けていた。 目を閉じているから、聞いているふりで寝ているようにも見える。 「あの、(あに)さん」 一曲を終えた紅花は、暫し玉露の評価が下るのを待ったが沈黙が長く、耐え兼ねて控えめに声をやった。 ピロロルリリとどこぞで鳥のさえずりがする。 紅花のそれより余程声高で流麗な歌声に聞こえるのが切ない。
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