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ふとそんなことが脳裏を掠めたけれど、
少年が思い至らないうちに、その感覚はいずこかへ遠のいた。
目に映るのはただ己の両手である。
まだあどけない丸みとふくふくしさのある、
瑕ひとつない色白のやわらかそうな両手の平だった。
小首をかしげる。
紅花の脳裏に今度は小さな疑問がわいた。
かつて故郷に居た頃はこんな手だったろうか、と。
否。
そんなはずはない。
親の畑仕事を手伝って土を掻き、子供同士で駆け回っては転んだり、蹴ったり、棒っ切れでチャンバラをしたり、
そういう暮らしの中にある手は、擦り傷だらけの垢まみれ、爪の間には土くれが詰まって黒ずんでいたに違いない。
眺め下ろす両手の白さは、とりもなおさず日陰者の白さである。
けれども、それを悲しいとは紅花は感じ得なかった。
故に、その感覚もまた、さして覚えぬうちに過ぎ去った。
ひとしきり己が両手を眺め下ろし、その白く清潔に手入れされていることに満足すると、改めて打掛へと手を伸ばす。
触れると、絹はしっとりとした冷ややかさで少年の手に吸い付いた。
まるで今しがた紡がれたばかりのような、御蚕様の繭を煮出す湯気の潤いすら湛えているような、なんとも心地の良い肌触りである。
ほう……、と知らず溜め息がこぼれた。
「爺様からの賜りもんでね、ま、こんなちんけな茶屋の素人陰間にゃ勿体ない代物だよ」
どこぞの殿様の姫君じゃあるまいし。などと、玉露はぶつくさ文句を垂れる。
が、口の悪さは天下を争う彼のこと、貶しているようでその実、褒めちぎっているのであろう。
爺様とは、今宵の主客である喜寿の老爺のことである。
大恩ある相手などと言っておきながら雑な呼び方をするあたりが彼らしい。
「似合うわきゃないんだけどねぇ」
と、彼は気乗りしなさそうに嘆いてみせた。
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