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密かに気を揉む紅花をよそに、坪庭の辺りでのんきな渡り鳥がピィィ――ッと鳴いた。
それは思いがけず鋭い高音で、緊張した面持ちの揃う甘味処の店内にも響いた。
気を取られ、紅花がつと廊下を振り返る。
似たようにして、潮を囲む輩たちもほんの束の間、気が逸れたのであろう。
掴む腕の力が僅かなりと緩んだのをこれ幸いに、潮は男らの束縛を逃れた。
一目散に駆け出す。
「アッ」とか「この野郎」とかいう声が聞こえた気がして、
再び店の側へと顔を向けかけた紅花は、不意に襲ったドンという衝撃に、
息を詰まらせ目の前が暗くなった。
押し倒された、もしくは突き飛ばされたのだと気づいたのは、
咄嗟についた両手の平と、強か打った膝小僧の痛みに加え、
見下ろす廊下の床の板目が、くっきり見えるほど近づいていたせいである。
どう転んだかも思い出せない一瞬のことに驚くばかりの紅花を、
さらに二度、三度、追い打ちの如き衝撃が襲う。
先に紅花を突き飛ばして駆け抜けていった潮を、件の輩どもが追って来たのだ。
転んでへたり込んでいる少年には僅かばかりの気遣いもなく、
それどころかわざとではないかと思えるほど逐一、男どもは紅花にぶつかり、押しやりしながら、
「待て」だの「テメェ」だの声を荒げて次々に通り過ぎてゆく。
とんだ錐もみ状態に目を回す紅花の耳に、ドタドタと駆ける足音が尾を引いた。
ギョッとする。
その音は廊下を奥へと向かったからだ。
冷静に考えれば、潮は廊下を奥へと突き抜け、裏の庭から飛び出して逃げおおせようとしているに違いないと判断できたけれども、
不意に突き飛ばされて転んだばかりの紅花に冷静さを求めては無理がある。
紅花にとって店の廊下は、単に甘味処の入り口と裏庭を繋ぐものというより、二階の陰間茶屋へと通じるものとしての意味が大きい。
陰間修行に励む少年にとって、行動の起点は常に師たる玉露の居る私室なのである。
咄嗟に玉露の身を案じ、紅花は今しがた目を回していたことも忘れ、
急ぎ男らの後を追った。
そうして実際、思いがけないことに、
いや、この場合、紅花としては『思った通りに』なのであるが、普通であれば考えられないことに、
男らは迷いなく二階へと続く階段を駆け上がっていったのである。
それというのも、潮がそちらへ逃げたからだ。
でなくば男らに二階を選ぶ理由はない。
庭へ抜ければどこへなりと向かえようものを、よりによって袋小路にしかならぬ階上へと、潮は駆けて行ったのである。
考えなしにも程がある。
それだけ狼狽しているということか。
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