212人が本棚に入れています
本棚に追加
男どもの足はそう速くはなく、
と言うのも、脱兎の如く逃げ出したといえ、すでに散々殴る蹴るされた後らしい潮の走りはよろめきがちであったし、
加えて、俗にウナギの寝床などと呼ばれる商家の廊下は奥行きこそあれ幅が狭く、大人の男が並んで走れるものではない。
一階と二階とを繋ぐ階段はそれより更に狭い上に薄暗く、急勾配と足場が悪い。
急ぐに急げずぞろぞろと縦に連なった男らが潮を追う。
まるで喜劇の如き狂騒である。
が、紅花にもはや嘲笑う余裕はない。
ただ一心に玉露の身を案じ、焦る足を空回りさせながらも、じき追いついた紅花は、予想を遥かに上回る光景に愕然と立ち尽くした。
元より、これといった何かを想像していたわけではない。
玉露を案じたのも、他に思い浮かぶものがないくらい、少年の日々の暮らしが彼との生活一色だっただけのことである。
恐らく、紅花の他には誰一人として玉露のことなど頭の片隅にも浮かんではいなかっただろう。
当然である。
潮が何をやらかしたにせよ、そのこととと玉露が関係してるはずがない。
巻き込まれる由がないのだ。
にも拘らず。
「た、助けてくれぇ」
日頃の横暴ぶりはどこへやら、潮は情けなく裏返った声で言いもって、玉露に縋りついていた。
私室の襖は乱暴に開け放たれている。
幸い、蹴破られたわけではなさそうだったが、さして広くない室内に幾人も、男どもがひしめくように立ち塞がっている。
異様な光景であった。
部屋の正面の格子窓では、早秋の昼下がりらしい、のどかな青空が切り取られている。
そのすぐ真下の文机にもたれるか突っ伏すかして昼寝していたのだろう玉露が、潮に縋りつかれながら膝を崩して座っていた。
寝起きの不機嫌そうな顔をしている。
驚然とすらしていない辺り、午睡を妨げられた不快感が勝っているようだ。
彼は眉間に深く皺を刻んで、訝しそうに男らを見上げる。
最初のコメントを投稿しよう!