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しかし玉露の顔が険しくなったのは一瞬だけで、
萎れた潮を呆れた様子で一瞥すると、
はあぁぁぁぁっ、と今日一番の深い溜息をついた。
先刻、潮が指さした方へと、ちらと恨めし気に目線を送る。
格子窓から吹き込む秋風に、やわらかに撫でられているのはこの世のものと思えぬ程に絢爛豪華な婚礼衣装である。
今宵の装いの為、珍しく玉露が自らの手で衣文掛けへと広げ、謂れを語って聞かせた、
紅花が目を奪われ、惚れ惚れとして胸を陶然とさせた、
あの姫君の如き色打掛だ。
よりにもよって、潮はそれを指して借金の肩代わりに売っぱらえと言ってのけたのである。
ひと睨みで済むような話ではない。
ちろりと玉露の赤い舌が覗いて唇を嘗め、改めて口を開く。
どんな言葉が飛び出すか、思考を巡らすより前に察した紅花が、咄嗟に口を挟もうとした。
しかしそれを許さぬ間髪で玉露が告げる。
「わかったよ。持っていきな。
幾らの借金だか知らないし、知りたくもないけどね、そうそう埋まらないってこたないはずだよ。こいつの言う通り、お釣りが来るってもんさ」
こいつ、という時に、ほんの一瞬だけ潮に目線を落とした。
紅花もまた、潮に目を向ける。
玉露と違い、じっと睨んだ。
大粒の両目に強く侮蔑を込めて睨みつける。
一生恨んでやる、とすら思った。
無論、人の怨嗟の情などそう長持ちするものではない。
けれどもこの瞬間には、紅花は確かに潮を強く憎んだ。
あれはただ単に今夜の衣装と言うだけではない、高価なだけでもない、
大事な客との特別な意味の込められたものなのである。
それを今この場で手放すことが何を意味するか。
客の期待を裏切ることを、客を落胆させることを、
気位高い玉露がどれほど厭わしく感じるか、想像するまでもない。
だが、今更言葉を翻す玉露でもない。
それもまた、彼の気位の高さゆえに不可能だ。
だったら言わねばいいものを。
何故、と紅花は思う。
潮ごときのために払う犠牲ではないはずではないのか。
まるで紅花には理解しがたい。
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