五幕の四・喜寿の祝宴

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五幕の四・喜寿の祝宴

宵を迎え、『梅に鶯』の二階座敷に十余名の客が訪れた。 その主格は御年(おんとし)七十七(しちじゅうしち)の老爺である。 姓は倉持(くらもち)、名は八木三郎(やぎざぶろう)。 姓の通りに蔵を三つばかしも持つ、古くは豪農の大地主であったとも言われる大店(おおだな)の楽隠居である。 風流をこよなく愛する古き良き趣味人であり、『梅に鶯』にも先代店主の頃から通う上客中の上客だ。 尤も、何かにつけ本物の色恋はどれであろうかなどと邪推をしてしまう(おさな)さの勝る紅花は、 あんまり歳の離れた老翁などは意識の(ほか)で、これまでまともに顔と名前が一致すらしていなかった。 が、かつて玉露の水下げの相手役を務めた人と知っては別である。 改めて、どんな大人物かと興味津々。 と同時に、すこぶる緊張を覚えもしていた。 老翁はその名から、『ヤギさん』『八木翁(やぎおう)』などと呼び慕われている。 そのせいかどうか、本当に山羊(やぎ)に似て、 銀鼠色(ぎんねずいろ)の紋付を羽織った小柄な痩躯、撫で肩から続く細い首に小さな頭がちょこんと乗り、 薄くなった頭髪は白く、同じく白髪の(ひげ)を顎先にひょろりと蓄えている。 (まなじり)の下がった細い目にツヤツヤとした頬と鼻先、いかにも「ほっほ」と笑い声を立てそうな好々爺(こうこうや)である。 身も心も豊かに暮らしてきた者の、温厚さとか穏便さとかが滲み出ているようだった。 そんな老爺の祝いの席に呼び集められたのは、みな特に懇意の者たちなのであろう。 老いも若きも入り混じっていたが、いずれも落ち着いた身形に福々しい表情で席に着いていた。 玉露の入りを告げるため、三つ指揃えて襖を開いた紅花は、その和やかな雰囲気に一目見て感じ入る。 風雅な遊び人と言うだけではない人徳を、老翁は長く培ってきたらしい。 この人を喜ばせることを玉露がどれほど楽しみにしていたか。 遅まきながらよくよく心得のゆく心持ちがした。
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