五幕の四・喜寿の祝宴

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段々と肩身を小さくしていく紅花を見かねて、老翁が優しい声音で尋ねた。 「何か、言いたいことでもあるのかな。小唄を聴かせてくれるという話だったか」 「あ、いえ、それは」 慌てて紅花は顔を上げると、力いっぱい首を左右する。 切り揃えた禿髪(かむろがみ)がパシパシと頬を叩く程の勢いだ。 老翁は一瞬、目を丸くして、それから軽やかに笑った。 唄に自信がないのを察したのだろう。 「仕様のない子だよ」 と、隣で玉露が苦笑いする。 紅花に目線を寄越すと、顎をくいとしゃくって見せた。 それに背を押されて紅花は口を開く。 「言いたいことがあるのではなくて、お聞きしたことがあるのです。あの――」 と、紅花は着物の袂を押さえつつ床の間を指さし、 あの扇について、と続けた。 「あれはいつの事だったかねえ」 なるほどと頷いた翁は、ゆったりとした口ぶりで訊くともなく玉露に尋ねた。 「さあ、何度もあちこち連れてって貰ったからね、あたしもとうに忘れちまったよ」 「こりゃつれない」 「つれないのはお前様だよ」 言って、玉露はツンと指先で老翁を詰る仕草をした。 八木翁は鷹揚にそれを受け止め、いじらしい指先を手に包むと、愛おし気に頬ずりをする。 「確か七つ辻近くの(みせ)だったかなあ」 「そうだったかい? 屋形船に乗った後だった気がするんだけどねえ」 「なら、梅苑(うめえん)の辺り……いや、秋なら旧寺子屋通りの方が風情があって良かろうな」 「菖蒲園の御陵も大銀杏(おおいちょう)だの楠だのあってなかなかの見応えだったよ」 「それはそうだが、あすこに行ったのは夏じゃなかったかね」 「秋にも行ったよ。焼き栗買って貰ったもの。  芝居の小屋が掛かっててさ、的屋(てきや)が並んでたじゃないさ。あたしはギンナンの串焼きが食べたかったのに、お前様は『ギンナンは腹を降すかもしれないから甘栗にしとけ』とか言ってさ。食べきれないような大きい袋の買ってくれるもんだから荷物になって困っちまったよ。  ああでもそれだと別の時だねえ」
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