五幕の四・喜寿の祝宴

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ああでもないこうでもない、と会話する二人に紅花はついてゆけずに首を傾げる。 梅苑はその名の通りに梅の植わった庭園で、景観が美しいと聞いたことはあるが寺川町のどこにあるのかまでは知らない。 菖蒲園だの旧寺子屋通りだのも同様で、耳にした事はあっても行ったことの場所だ。 辛うじて知っているのは七つ辻くらいなものである。 どうやら先に玉露が言った通り、八木翁はあちらこちらと玉露を連れてよく出掛けていたようだ。 「場所はとんと忘れてしもうたが、何しろ工房があってね、和紙を漉いておる工房だった」 痩せて節と皺が目立ってなお、どこかつるりとした印象の細い指で、己が白い髭を撫でながら翁が言う。 細めた目は紅花の顔を掠めて床の間に向けられていたが、実際は記憶の中の風景を眺望しているのであろう。 揺蕩うような穏やかな光が宿されている。 各々酒を酌み交わしていた他の面々も、いつしかその言葉に耳を傾けていた。 「まあ珍しくもないやね。ここいらは水が豊富だから(きぬ)を染めるにも紙を漉くにも都合がいい」 細く小さなせせらぎを合わせれば数えきれないほどの川が流れる町である。 観光地として栄えているせいもあってか、風情を大事にする住人たちは洋装よりも和装を好み、手巾(ハンケチ)よりも懐紙、蝙蝠傘より蛇の目傘を好む傾向にある。 土産物屋に並んでいるのも、多くは昔ながらの和小物で、 千代紙の貼られたごくごく小さな抽斗だの、鈴のついた錦の匂い袋だの、 今時どこでどう使うのかよく分からない物がよく売れる。 となれば、それを作る職工も居るわけで、個人の営む工房がどこなりと点在している。 そのうちのひとつに、ある遠い日に八木三郎は玉露を伴って訪れたのだった。
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