六幕の一・紅花

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そこまで粗食に暮させているつもりはないがなあ、 と親父は内心で苦笑する。 といって腹いっぱい食わせてやっている覚えもなから、 育ち盛りにはいつだって物足りぬものがあるのだろう。 いっそろくでなしの実の倅と取り替えに、 こっちの素直で可愛い子供と養子縁組でもしてしまおうかと、 本気ではないことを考えつつ、 「とっととあがっちまいな」 とぶっきらぼうに親父は言って、紅花の小さい手にスルメを握らせた。 少年は艶々と癖のない禿髪を振って、こくこくと二、三度も頷く。 嬉し気に礼を口にして、すぐさまくるりと踵を返した。 「おい、どこに――」 行くつもりかと、小走りに駆けだした紅花の背に声をやりかけて、 親父はまた苦笑する。 なんともお行儀のいいことだと、半分呆れた。 紅花はたかが一本のスルメを食うのに、 台所へ行って皿を出そうというのである。 よほど玉露に口煩くされているのだろう。 その程度のもの、ついでに火鉢で暖を取りつつ立ち食いしてしまえばいいものを。 しようがないから、イスのひとつも出してやるかと親父が腰を上げたところで、 紅花がも一度小さく礼を言いつつ、皿を持ってすれ違っていった。 「あ」 と思った時には、もう少年は上がり框を跨いで暖簾の向こうに姿を消している。 とたとたと愛らしい足音だけが耳に残った。 「あちゃあ~」 親父は頭の後ろに手をやって渋面を作る。 早く食べてしまえという意味で「あがれ」と言ったつもりだったのが、 どうも勘違いさせたらしいと気づきはしても、後の祭りであった。
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