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今思えば、当初玉露が紅花を連れてあれこれと見物に出掛けたのは、
売り飛ばされて親元を離れ、陰間茶屋などに身を寄せる事になった少年を憐れんでのことだったのかもしれない。
彼なりに、気落ちしているだろう幼い子を気遣って、気晴らしに連れ回していたのやも知れぬ。
尤も、それにしては、
芝居特有の耳慣れない言い回しなどに辟易して当時の紅花が余所見をしたりなぞすると、
玉露は容赦なく腿をつねってきたりもしたから、やはり単に陰間修行の一環だったのかもしれない。
今なおいとけない少年の年頃の紅花であるから、
そう大昔と言うことはないけれども、遠い過去のことのように思えるいつかの出来事と、
今目の前を通り過ぎてゆく風景と、間近にある玉露の横顔や温もりと、
色々混じった感慨に小さな胸を忙しくさせているうちに、
やがて人力は道の端に寄って停車した。
見るとそこは華頂座のそばである。
立派な大屋根に幾多の破風、張り出した欄干、その合間合間に垂れる大幕、鮮やかに白い漆喰の壁、
大きく、重く、厳めしく、けれど華やかな建物の威容が他を圧倒している。
芝居町一の芝居小屋の堂々たる姿に、紅花はもう何度目かではあるけれど、やはり目を瞠らずにいられなかった。
俥夫に手を取られて人力を降りる足取りもおざなりに、
口をぽかんとさせて華頂座を振り仰ぐ。
「なにボサッとしてんだい。行くよ」
玉露の声に尻を叩かれ、紅花は慌てて間抜け面を引っ込めると、
小走りに後を追った。
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