六幕の二・観劇

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玉露の向かうまま後に続き、進まされるまま進んだ紅花は、 気づけばちょこんと座っていた。 目の前には檜の大舞台がある。 華頂座の中でも一番大きな舞台のある場内、その最前列の中央の席であった。 隣の席は空いている。 つい先頃迄そこに玉露が居て、早口にあれこれ捲し立てていたが、 言い終えるなり居なくなってしまった。 さしもの紅花もこんな席に座ることになるとは驚かずにいられない。 目を白黒させているうちに玉露の話が終わってしまい、 一通り聞きはしたが、聞いただけで呑み込めてはいない間に、 さっさと玉露が行ってしまったので何も訊き返せずじまいであった。 呆気に取られるとはこういうことである。 きょとんとして座したまま、紅花はあんぐりと口を開きそうな顔つきで、立派な舞台を眺めていた。 開演前で役者は居ない。 どんな演目があるかも聞かされていない。 手を伸ばせば触れられそうな距離の檜の床に、その艶々とした磨き抜かれた輝きに、広々とした奥行きに、美しい壁の絵に、 気圧されて見入っているばかりである。 こんな近さで芝居を観たら、役者の息づかいさえ聞こえるのではないか。 そう考えるだにドキドキしてくる。 紅花は特別観劇が好きな少年という訳ではなかったが、 それでもこんな特等席に座らされれば興奮しない者の方が少ないだろう。 そわそわと落ち着かなくなって振り返った紅花の大粒の瞳には、満員御礼とばかり、ぎっちり客で埋まった会場が映った。 立ち見の客も居るらしく、どこを見ても人の顔だらけで眩暈がしそうになる。 ただどの顔もほくほくとして期待に輝き、満席とは言え殺気立つほどの詰めかけぶりではないらしい。 気分の高揚はそのままに、紅花は少し安堵の息を吐いた。 いつまでも振り向いていては行儀が悪いだろうかと迷いつつ、 黒山の中に玉露を捜す。 ここいらでは芸妓、舞妓も少なくないとはいえ、あれほど見事な日本髪の者は客席に多く居ないはず。 そう思って目を凝らすけれども、開演前とあってまだうろうろと動いている人や帽子を被ったままの人も居て、埋もれてしまってか見つからない。 諦めてひとまず前に顔を戻したところで、すぐ横合いから声がかかった。
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