六幕の二・観劇

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「やあ、お邪魔するよ」 そう言ったのは四十絡みか、それより若いかもしれない、 いかにも地元の者らしい袖の詰まった和服の上下に、地味な色味のインパネスを軽く羽織った男であった。 一見粗末だが、そこそこ仕立てのいい装いをしている。 男ぶりも悪くはない。 遊び人風だがどことなく職人気質の生真面目さも感じられる。 男は言ったなり当たり前のふうで玉露の空けた席に座った。 紅花は咄嗟に言葉が出ない。 「そこは(あに)さんの場所です」と言ったものか、「どちら様ですか」と問うたものか、まずは「こんにちは」と挨拶したものか、 口をパクパクさせているうちに、男の方で勝手に話し始めた。 「さっき急に声を掛けられてね。  席を替わってくれって言うものだから驚いた。俺の席はずっとずっと後ろの最後尾だからね。  まあ、立ち見よりはマシっちゃマシだが、似たり寄ったりさ。それをあんな人がねえ。  ありゃ、お前さんの姐様(あねさま)かい」 言って男はくいと顎をしゃくる。 つられて紅花も振り向いては見たけれど、やはりどこに玉露が居るかはわからなかった。 顔を戻しつつ、紅花は曖昧に頷く。 姐様ではなく、哥さんだと、正したものか判断しかねる。 男は玉露の装いから芸者か、或いは娼妓だろうと察しはしたが、男娼妓(かげま)であるとまでは見抜けなかったらしい。 勘違いしているくらいだから、玉露の客の一人ではないのに違いない。 見ず知らずの他人である。 「今日はお勉強の観劇かい。  いい姐様を持ったもんだ。妹分ひとり一等いい席に残して、自分は後ろで控えようなんて、出来たお人じゃあないか。さぞ自慢の姐様だろうね」 これに紅花はコクコクと頷く。 同意したのは『自慢の』という部分だけであったが、 男は丸ごとと解釈して、話を進めてゆく。 「ま、俺にも自慢の兄貴分が居てね、実に見事な仕事をするんだな。  つっても、お前さん方みたいに表舞台に立つ人間じゃあないんだが。ま、職人だな。舞台の道具やなんかを作ってる。  裏方だが立派な仕事だ。道具がショボくちゃ、舞台の見栄えにケチがつくってもんよ」
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