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「やあ、お邪魔するよ」
そう言ったのは四十絡みか、それより若いかもしれない、
いかにも地元の者らしい袖の詰まった和服の上下に、地味な色味のインパネスを軽く羽織った男であった。
一見粗末だが、そこそこ仕立てのいい装いをしている。
男ぶりも悪くはない。
遊び人風だがどことなく職人気質の生真面目さも感じられる。
男は言ったなり当たり前のふうで玉露の空けた席に座った。
紅花は咄嗟に言葉が出ない。
「そこは哥さんの場所です」と言ったものか、「どちら様ですか」と問うたものか、まずは「こんにちは」と挨拶したものか、
口をパクパクさせているうちに、男の方で勝手に話し始めた。
「さっき急に声を掛けられてね。
席を替わってくれって言うものだから驚いた。俺の席はずっとずっと後ろの最後尾だからね。
まあ、立ち見よりはマシっちゃマシだが、似たり寄ったりさ。それをあんな人がねえ。
ありゃ、お前さんの姐様かい」
言って男はくいと顎をしゃくる。
つられて紅花も振り向いては見たけれど、やはりどこに玉露が居るかはわからなかった。
顔を戻しつつ、紅花は曖昧に頷く。
姐様ではなく、哥さんだと、正したものか判断しかねる。
男は玉露の装いから芸者か、或いは娼妓だろうと察しはしたが、男娼妓であるとまでは見抜けなかったらしい。
勘違いしているくらいだから、玉露の客の一人ではないのに違いない。
見ず知らずの他人である。
「今日はお勉強の観劇かい。
いい姐様を持ったもんだ。妹分ひとり一等いい席に残して、自分は後ろで控えようなんて、出来たお人じゃあないか。さぞ自慢の姐様だろうね」
これに紅花はコクコクと頷く。
同意したのは『自慢の』という部分だけであったが、
男は丸ごとと解釈して、話を進めてゆく。
「ま、俺にも自慢の兄貴分が居てね、実に見事な仕事をするんだな。
つっても、お前さん方みたいに表舞台に立つ人間じゃあないんだが。ま、職人だな。舞台の道具やなんかを作ってる。
裏方だが立派な仕事だ。道具がショボくちゃ、舞台の見栄えにケチがつくってもんよ」
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