六幕の二・観劇

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男はどうやらその兄貴分とやらの仕事ぶりを観に来たらしい。 今日の舞台の道具の一部に使われるのだと言う。 嬉しそうな男の顔からは、熱心に仕事に賭ける善良な気質が窺えた。 なるほど、席を取り替えるのに性根の(まず)い人間を玉露が選ぶはずもない。 人を、特に男を見る目は、磨きに磨かれた彼である。 席を替わるだけでなく、紅花の隣に座って問題のない、人柄のいい男を選んだに違いない。 それならそれで、先に言い置いてくれても良さそうなものを、 と紅花は思ったけれど、 もしかしてそれも言っていたのだったろうかと、少々自信がなくもある。 だいたい、話が急で呑み込む暇がなかったのだ。 今頃になって、紅花は先刻、玉露の言っていたことを頭の中で整理しだす。 要するに事の発端は猪田(いのだ)であるらしい。 相も変わらずなご仁である。 編集者を生業とする猪田はその仕事上の付き合いの相手だか文豪だかをもてなすため、 寺川町一の歓楽街である芝居町の、そのまた随一の芝居小屋である華頂座の、 更にまた一番立派な舞台のある劇場の、最前列の中央という一等中の一等席を、 ご用意奉ったらしいのである。 どうにも金に物言わせていそうで品のいい感じはしないが、ボンボン育ちの猪田が好みそうな趣向ではある。 が、予定が変わってしまったらしい。 締め切りに追われたのだかなんだか詳細な事情は知らないけれど、当の相手が来れなくなった。 しかしそこはそれ、神経の図太い猪田であるから、これ幸いと玉露を誘って特等席で二人芝居物見と洒落込もうとしたらしいのだが、 結局、猪田自身も急な用向きができてしまった。 とは言え、何しろ最前列の中央の席であるから、空席にすると謂う訳にはいかぬ。 それこそ舞台にケチがつくというもの。 ともかく誰かと行ってくれと拝まれた玉露が紅花を伴った、と、そういう訳であるらしい。
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