六幕の二・観劇

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尤も、その話全体がどうに嘘くさい気がしないでもない。 顔の広い猪田なら他に席を譲るあてくらいくらでもありそうなもので、ならば元より猪田は玉露を誘い出すつもりだったのではないか。 初めから一緒に観劇しましょうよと言えば良いのに、時に回りくどく恩を売るどころか恩に着るような格好で相手をもてなそうとする。 そういう変な気障さが猪田にはある。 無様なくらい素直に惚れた腫れたを口にして玉露に執着して見せたかと思えば、 他の者に紹介して自慢をし、そのくせ妬いたりもする。 無神経で押し出しが強いようでいて、案外不器用で小心な男でもあるのだろう。 だからたまに、常人には理解しがたい面倒な方法で好意を示したりする。 それを鼻でせせら笑う玉露は、しかし意外にもそうした猪田の行いを無碍にはしない。 むしろ悦んでいるふうすらある。 紅花なんぞにはひたすら面倒な男に思えてしまうのだが。 これが男と(おんな)の色恋の妙味というものか。 珍味である。 いたいけな少年にはまだ分からぬ。 なんにせよ、そうした事情を玉露は、 複雑なんだか込み入っているのだか、紅花の頭では理解が追いつけずにいるのに気づかないわけでもなかろうに、 言い立てるだけ言い立ててうっちゃらかして行ったのだった。 席替えをしたのは彼の日本髪が最前列にあっては他の客の迷惑になるからだろう。 それについても、一言あったと言えばあったのかもしれない。 が、あったとしても、ひとしきり捲し立てた最後にちょっと付け加えた程度だったに違いない。 紅花に対しては、とんと気遣いのない玉露である。 道中に聞かせてくれても良かった気がするが、 紅花自身、俥中では浮かれて気もそぞろだった自覚がないではないから、責めるに責められない。 察するに、この舞台道具の職人だとかいう男はその辺のことは何も聞かされていないらしい。 他人の耳に入れる話でもないから当然か。 ただ席を替わってくれと言われて、はいそうですかと易く応じた気のいい男のようだ。 兄貴分の気風の良さであるとか、腕の確かさであるとか、何故か家族構成だとかまで話を聞かされ、 玉露もこのくらい確り色々の説明をしてくれたらと、 紅花はあらぬ恨みをちょっと抱いてみたりしつつ、折々に相槌を打った。 男の話ぶりは快活でそこそこに面白く、 聞くうちに紅花も小さく笑ったり、先を促す合いの手を入れたりした。 男があんまり兄貴自慢をするので、 紅花もちょっとは自身の哥さんのことを自慢したい思いに駆られ、 しかし話の腰を折るのは野暮なので我慢する。
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