六幕の三・道行

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六幕の三・道行

焼き餅の焦げ目が香ばしいぜんざいを前に、 紅花(べにばな)玉露(ぎょくろ)と向き合って座っていた。 小さな店の中である。 『梅に鶯』ではない。 店先の暖簾には『蕎麦 甘味 大能屋(おおのや)』と染め抜きの文字が踊っていた。 華頂座(かちょうざ)での観劇を終えた帰りの道すがら、玉露が寄ろうと言ったのだ。 玉露が紅花を甘味処に伴うなど、まずない事である。 すわ鬼の霍乱か。 紅花は無意味に狼狽えたけれども、何のことはない、どうやら見知った相手の店だったようである。 玉露が暖簾を潜るなり、 「おや、お珍しい」 と、店主らしい親父が声をくれた。 愛想のいい、六十手前かそのくらいの年配である。 小柄だが、固太りと言うのだろうか全体に四角い印象の体躯をしている。 冬だというのに袖捲(そでまく)りした深草色の板前服に、地黒な二の腕が逞しい。 日々、蕎麦打ちに励んでいるためだろう。 「お珍しい、じゃないよ。旦那がちっとも来てくれやしないから、焦れてこっちから来ちまったんじゃないサ」 軽く憎まれ口を叩き、玉露は空いた席に腰を落ち着ける。 紅花も倣って、向かいの席に着いた。 ここの店主はどうやら玉露の客の一人らしい。 そう思って見れば、なんとはなしに見覚えがある気もするけれど、 全然知らないような気もする。 何せ玉露の客は三百六十五日、夜毎に誰彼とやって来るうえ、 紅花が同席するのは宴席などの時だけで、大抵は部屋までの案内役を務めて終いだ。 仕事柄、客の顔は覚えるよう心掛けてはいるものの、 目に焼き付けようとばかりにまじまじ見つめるのは失礼であるし、 たかが部屋付きの小僧相手に毎度毎度、名乗って挨拶する客もそうはいない。 月に何度も顔を見せる上客ならばともかく、 年に一度や二度、ちょいとお座敷遊びにやって来る程度の客となると、紅花はちっとも覚えきれずにいるのだった。
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