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「そりゃ悪い事したねえ。
女房に死なれてからこっち、何かと慌ただしくなっちまって。
客あしらいは女房に任せっきりだったし、掃除洗濯なんざこれっぽっちもしたことがなかったもんだからよ、
店の中も外も家ん中もとなっちゃあ、美人の顔を拝む余裕もなくってねえ」
運んできた湯呑を二人の前に置き、盆を小脇に持ち直した親父は、
ぽりぽりと頭の後ろを掻いて羞ずかしそうに、そして少し侘しそうに笑んで見せた。
スッと玉露の白い手が友禅の袂を払って机上を滑る。
「その節は」
短く告げ、静かな面持ちで睫毛を伏せた。
指先を揃えた下に、封筒が一通。
白いそれは名も額も記されてはいなかったが、黄色の水引が結ばれている。
「悪いね」
「ついでだけどね」
親父は無粋な遠慮で場を滞らせることはせず、
玉露が差し出したのと同じにスッとさりげない仕草で受け取った。
懐にしまうと、先の侘し気な笑みに目を細めて言う。
「亡妻も一度、お前さんの顔を見てみたいって言ってたっけねえ。
自分の亭主を誑し込む悪玉の頬っぺた引っ叩いてやんだって。
ま、本気じゃなかったろうが。あれは妬気のない賢い女だった」
机に乗せた手をひらりと返し、赤く紅の滴る口元にやって玉露が笑みを刻む。
「あんたにゃ勿体ない女性だよ」
「違いねぇ。だもんで、さっさと次を探しに逝っちまった」
「慰めてやるからいつでもお出で」
親父は否とも応とも答えず、注文を取って奥へと消えた。
紅花は、不思議とこれは別れの挨拶なのだと理解した。
玉露はけして、しばらく足の遠のいている客を呼び戻すためにやって来たのではない。
誘い文句を口にしはしたけれど、それは全然逆の意味で、もうあの親父が客として自分の元に訪れることはないと了解しているのだ。
何故だか、そんな気がした。
時として、語られない物事の方が、
言葉を尽くして語られる何がしかより、真に迫って胸に沁みることがある。
玉露が芝居見物に出ることになったのは偶々のことだから、
ここに立ち寄ったのも「ついで」で間違いないのだろうけども。
いずれ機会が訪れたならと、玉露の頭の片隅にはこのことが常に置かれていたのだろうと思う。
その心の遣い方が、彼をただ一夜限り閨事に耽って終わるだけの色売りとは違わせているのだ。
一度でも膚を合わせたからは、行末までも情を注ぐ。
その情は時に色恋を模しもするけれど、欲に駆られるばかりではない。
男を手玉に取る代わり、慈しみもすれば労わりもする。
玉露とは、陰間とは、そういう生き物であり、生き様なのである。
故に、婀娜であっても艶である。
華美さの中に気品がある。
運ばれてきたぜんざいの香りに、腹の虫ががクゥと鳴き、
紅花は酷く恥ずかしくなって顔を赤らめた。
――と、そんなこんなで今である。
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