六幕の三・道行

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そうなのだが。 それをそのまま楽しかった面白かったと言ったのではいかにも言葉が足りない。 しかし、あれがどうだったこれがどうだったのと言い募るのも違う。 玉露は紅花の母ではないのだ。 どれほど慕えど、子供の繰り言を聞かせるような態度で接することは憚られる。 否、そもそも玉露が紅花に感想を求めていること自体が、 陰間としての躾の一環なのである。 どこに着目し、感心し、それをどう表現するのか。 いずれ知己に富んだ会話で客を愉します()としての才量を、その育ち加減を、測ろうとしてのことである。 別に、紅花は玉露の顔色を窺っていい子ぶろうと思うほど、卑屈でも姑息でもありはしない。 だが弁えてもいる。 己の立場と相手の立場と。 ただ遊びに連れ立って楽しんで面白くって良かったねえと、それで済む甘さはあるべきでない。 ここはきちんとした感想を述べるべき場面である。 そうは思えども、そう思うから余計にか、言葉が出てこない。 紅花は聡明ではあるが、あまり賢くはないのだ。 素直な分だけ単純で、気の利いた科白がパッと浮かぶほど老獪にできていない。 尤も、老獪な少年など可愛げがなく、それはそれで褒められたものではないが。 さんざ言葉選びに迷った挙句、 「愉しかったです。とても」 と、結局紅花は初めに浮かんだのと変わり映えのない、実に貧相な感想を口にした。 玉露の眉間に皺が寄る。 てっきり扱き下ろすかと思いきや、玉露は苦笑いしたのみで済ませた。 「そんなこたぁ、あんたの顔見りゃ分かったけどね。  幕が引けたってのに、いつまでも席にチョンと座っててさ」 「それは、哥さんが来られるのをお待ちしていたからで……」 「目ぇキラキラさせたまんまかい。頬っぺたまで赤くして。  あんたって子はホンに分かり易いったら」 まあ無理もないサと玉露は続けた。 あれほど近くで観劇したのだ、すぐには興奮醒めやらぬのも当然のこと。 そもそも、鳳ノ介が主役を務める舞台が面白くないはずもない。 見目が良い、声が良い、男ぶりが良いというだけで、人気役者が務まるほど世間は甘くない。 かと言って、鳳ノ介一人の芸が見事なだけでも成り立たない。 他の演者、囃子手、小道具、大道具、筋書、衣装、 舞台に関わる数多の要素が総じて綾なし形作られるのが芝居というもの、 鳳ノ介だけが飛びぬけてしまっては悪目立ちするだけで芝居にはならぬ。 寺川町(てらかわちょう)一の人気役者が立つに見合った舞台を、皆が皆、己の持てる技力を尽くして作り上げる。 なれば必然、面白いものになる。 そうならない道理がない。 が、まあ紅花が言いたいことはそういうことではないのだろう、 ということも、玉露は分からぬではない。 「で」 と、玉露は頬杖して、向かいの少年を観察するようにして問いかけた。 「あんたも()ってみたいかい」
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