六幕の三・道行

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机を挟んで向かい側、つんとした横顔を見せている玉露を凝視する紅花の両目が、 見る見る潤んで大粒の滴を浮かべる。 まだ食べ終えていなかったぜんざいの椀が、冷えて、汁気を失くしてどろりと沈んでいる。 細すぎた声に聞き咎めた玉露が改めて紅花に目顔を向け、 ぎょっとして頬杖していた片手の平から頬を浮かす。 「ちょっと、なんだってあんた泣いてんのさ。  別に泣くような話じゃなかったろう。むしろ一寸(ちょい)と善い話をしてやったんじゃないさ。  なのに、なんだって……。ああもう、厭んなるねぇ」 言うなり玉露は片腕をあげ、ぼりぼりと頭を掻こうとして、 ここが私室でないのを思い出したか、袂を押さえて腕を降ろす。 懐に手を移して懐紙を取り出し、やや乱暴に紅花の前に置いた。 「こんなところで泣くんじゃないよう。あたしが苛めたみたいじゃないさ」 「……泣いてないです」 差し出された懐紙を受け取りつつも、紅花は小声で反論する。 視界は潤み、滲んでいたが、滴はまだ瞳に(とど)まっていた。 紅花自身、何故こんなふうに涙がわいてきたものか、明確にはわからない。 けれども胸がしくしくと痛い。 先程妙に冷えた肝が、今度は棘でも生やしたみたいに痛い。 はあ、と吐き出された玉露の溜息が追い打ちをかける。 「いつまでも(くるま)待たせてらんないからね、もう行くよ」 呆れているのか、苛立っているのか、険のある玉露の声に促され、 紅花は涙を堪えた妙にしかつめらしい顔つきで、店主にお辞儀して店を後にした。 二人並んで俥に揺られる。 吹きつける風は冷たくとも、行きはどこか()く温くと感じられたのに、 これと言った話題もなく、互いに無言であるのも同じなのに、 帰りは酷く寒々として、重苦しい空気に感じられた。 肩触れ合う距離の、その僅かな隙間に、絶えず寒風がすり抜けてゆく心地がする。 玉露は行きと変わらず美しい姿勢で前を向いて座っているだけなのだが、紅花には彼がそっぽを向いているように思える。 玉露が声をくれないので、自然、紅花は物思いに沈んだ。 そうして記憶を手繰るように、先のやり取りを思い起こしては心の裡でなぞり、気づく。 頭で思うより前に、胸で感じて涙を染み出させた、その理由(わけ)に。
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