六幕の三・道行

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見捨てられたと思ったのだ。 玉露に見限られたのだと。 役者の道を示すという事は、取りも直さず、娼妓の道を外れるという事だ。 玉露を師と据え玉露を仰ぎ、それこそ親鳥を追う仔鴨のように付き従ってきた少年を、彼は切り捨てようと言ったのだ。 恐らく、実際はそうではなかった。 現に玉露は今すぐ見習い小僧を止めて歌舞伎小屋へ身を移せとは言っていない。 単にそういう将来もあり得なくはないのだから考えてみてはどうか、 もしそれで望むのなら、橋渡しをしてやらなくもないぞと、そう言ったに過ぎない。 けれど。 紅花は、役者の道を示した彼の言葉に、この先の可能性より、これまでの終わりを告げられたと感じたのだ。 もはやお前は用なしと、そう言い捨てられたように思った。 思うより先、感じ取った。 だから、肝が冷え、涙が溢れた。 紅花が陰間として大成することはない、だから他の道を模索せよと、 玉露は告げたかったのはそういうことではないか。 そうなのだろうか。 そうかもしぬと、紅花の心の裡が揺らぐ。 未だ、閨事の仕込みも受けていないのがその証拠。 紅花の歳には玉露はすでに一人前の陰間として客を取っていたというのに。 見込みがないから教われもしないのではないか。 そんなはずはない、とも紅花は思う。 相手は玉露だ。 物事を決めかねて、ずるずると長引かすような気質(たち)にない。 これは駄目だ役立たぬと、そう察したなら、遠慮会釈なく申し付け、すぐにも(いとま)を出すだろう。 そもそも紅花の身柄を買ったのは店主の親父で、それを追ん出す権利など彼にはなかったとしても関係ない。 成らぬものは成らぬ。(しか)らば手に掛け目に掛け金子を掛け、時間を割くだけ無駄な事と、 達者な口で店主の親父を説き伏せて、納得させてしまうだろう。 それで紅花が泣こうが喚こうが、落ち込もうが嘆こうが路頭に迷おうが、知ったことではない。 玉露に情が無いと言うのではない。 だが彼は、情に絆され無為を重ねるほど(ぬる)くもないのだ。 情に篤いことと、情に脆いことは違う。 であるから、玉露が言ったことに深い意味はなかったのだろう。 そもそも、客相手の駆け引きならば兎も角も、紅花を相手に含みのある言葉を弄する彼ではない。 口は悪いし底意地も悪く、意地汚かったり腹黒かったり、ひねくれ者で手前勝手で、 相手がまだ年端もゆかぬ少年(こども)だというのに、手加減容赦を知らぬ玉露であるが、 それは言い換えればそれだけ紅花に気を許しているのであり、 小僧っ子相手に面倒な駆け引きなどは用いない、明け透けで裏表ない持ち前の気質の表われでもある。
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