六幕の三・道行

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だからあの言葉は額面通り、 そういうこともできなくないよと、そう言ってみたに過ぎないのだ。 もしかすれば、それで紅花がどんな反応を示すのか、見てみたい好奇心ぐらいはあったのかもしれぬ。 いずれ、ただの気紛れだ。 本気で紅花をどこぞの楽屋裏にでもうっちゃってやろうなどとは考えていなかったはず。 偶然が重なったのだか猪田の画策なのだか、そこはどうあれ舞台真正面の最前列という特等席で観劇し、目を輝かせていた少年が、 もしや役者の道もあるのだと知れば、もっと目を爛々とさせて愉快な夢想に耽るやも知れぬと、 それを一頻り眺めた後に、馬鹿だね冗談だよなどと言ってしょぼくれる様を笑って虚仮(こけ)にしてやろうと、 そのくらいの意地悪(いけず)は考えていたのかもしれないが、 それとて単なる思いつきで、常と変わらぬ(あそ)びのつもりであったに違いない。 深刻な話題などでは全然なかったのだ。 その証拠に、紅花が目を潤ませたことで玉露は大いに狼狽していた。 そうなるとは考えもしていなかったのだろう。 玉露が紅花をお払い箱にするつもりであんな話をしたのなら、紅花が泣きだしても何の不思議もない。 そうではなかったから彼は驚き、狼狽えたのだ。 凍えてでもいるかのように小さくなって俥の座面の半分に収まりながら、 紅花は思いを巡らせ、どうにかそう結論した。 いつの間にか酷く凝り固まっていた肩から少し、力を抜く。 ちらりと隣の玉露を窺い見、その白い澄まし顔に特段の表情が浮かんでいないのを確かめて、 ほっと安堵の息を吐いた。 クソ忌々しいとでも言いたげな(しか)め面をしていたなら、さすがに躊躇するところだ。 「あの、哥さん」 「ん?」 控え目にかけた紅花の声に、玉露は口を開けないままの返事で顔を向ける。 濃い睫毛がやや下を向いて、簾になった奥の瞳が幾らか物憂げに見える。 項垂れた少年を横にしてただ俥に揺られていることに、飽いて倦んでいるのやもしれぬ。 「先刻(さっき)は――」 すみませんでした。妙な具合にしてしまって。 そう詫びようと紅花が玉露を仰ぎ見る途中で、ガクン、と人力が横殴りに揺れた。
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