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六幕の四・妬気
初めに横揺れし、次いで座席が前に傾いだ。
見るとそこに居るはずの俥夫がおらぬ。
人力俥というのは俥夫が梶棒を握っていなければ、座ってはおれない代物だ。
無論、乗り降りに際しては俥夫がまだ梶棒を握る前であるから、全くどうにもならないわけではない。
乗るにせよ、降りるにせよ、意識して踏ん張れば前傾した座面の上でも座っていられる。
その程度の緩い傾き加減ではあるのだ。
ただそれも、意識していればの話。
前触れもなく俥夫が梶棒を放したなら、乗っている客は突然前屈みになって、
座って揺られているだけの時に両足に力を込めているはずもなく、
ただなんとはなしに蹴込に載せていただけの足に急に己の重みがかかれば、
即座に踏み止まるのは容易ではない。
よしんば踏み止まったとて、拍子に腰が浮いてしまって余計前へと身を乗り出すことになろう。
要するに、どうしたって転げ落ちるか飛び出すか、いずれ席から放り出されずにはおれないのである。
横揺れに次いで前に傾ぎ、その先に居るはずの俥夫が居ないのを目に映したのも束の間、
紅花は座席の背宛てに押し出されるようにして、
ぽんと宙に放り出された。
ズジャリと嫌な音がして、気づけば地面に転んでいる。
打ったか擦ったか、両の向う脛が痛んだ。
一瞬それに気を取られるも、すぐにハッとして横を見る。
「哥さんッ」
「痛たた……」
咄嗟に幌の柱を掴んだものか、紅花ほど大袈裟に飛び出しはしなかったらしい玉露が、
それでも転げ落ちたには違いなく、片手を膝にやって座り込んでいた。
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