六幕の四・妬気

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「ご無事ですか。お怪我は」 言いながら紅花は駆け寄ろうとするが、両の脚どちらもが痛んで立ちあがり損ねる。 いざるように地べたを這い、玉露の傍へ寄った。 紅花の具合を見るのもそこそこに、玉露はキッと顔を上げる。 「何考えてんだいッ、このスットコドッコ、イ……」 浴びせ掛けた罵声の威勢は、尻すぼみに小さくなった。 外面を気にしてのことではない。 いくら通りの真ん中だからと、『梅に鶯』の看板を背負っていようと、 突然俥から放り出されて黙っていられる玉露ではない。 しかし怒りの矛先を向けようにも、当の俥夫が梶棒の脇ですっ転んでいた。 単に蹴躓(けつまづ)いて転んだとか、そういう様子ではない。 そうであれば俥夫は前後左右に区切られた、座席と棒の四角い真ん中に蹲ってでもいただろう。 しかし彼は梶棒の横の部分を跨ぎ越し、その脇に転がっていたのである。 まるで体当たりでも食らわされて、圧し出されでもしたようだ。 否、恐らくきっと、そうなのである。 何故なら、俥夫が立っていたはずのその場所に、別な女が立っていたからだ。 女は般若の面相で、仁王立ちに力んでいた。 めらめらと炎を背負い、髪を逆さまに立てていそうな、それほどの様子である。 紅花は知らずビクリと震えて、玉露の腕に縋りついた。 目は驚きにまん丸く瞠られている。 玉露は矛先を向けるべき正しい相手を見出し、眦を一層高くして睨み据えた。 こちらもこちらで怒髪天衝く勢いである。 心強いがそれはそれで怖い。 紅花は縋った手を思わず引っ込めそうになった。 あちらが般若ならこちらは阿修羅。 門前の虎に後門の狼。 玉露が身内でなかったなら、紅花は裸足で逃げ出したい境地である。
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