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通りを行く人が、はたり、はたりと、足を止めて何事かと訝しむ。
すでに芝居町は抜けていたから、人の賑わう通りでこそなかったが、
人出がまるでない程も田舎道というわけでもない。
店もあれば家屋もある、通りすがりの人も居る。
そんな中、女はまるで動じることなく立っている。
年の頃はまだ三十路に掛かるか否か、当世風の洋装ではなく、
誂えのいい紬の小紋を着ていた。
加賀染だろうか、精緻な模様に手仕事が光っている。
帯も品よく、丸髷に結った髪も丁寧に整えられている。
大店の娘か良家の妻女か、『梅に鶯』の店主の女房などよりは一つ、二つ、格の高い女であるように見受けられた。
そんな女が、力づくで人力を停めさせ、通りの真ん中で仁王立ちしている。
異様な光景である。
ようやく起き上がった俥夫はあんぐりとして、木偶の棒と化してしまった。
虎狼は互いに睨み合い、間に緊迫した空気が満ちる。
先に口火を切ったのは玉露である。
訳の分からぬ状況に我慢し切れなくなったのだろう。
「あんたねぇ、何処の何方様か知らないけど、人を俥から振るい落としといて詫びの一言もないってのはどういう了見だいッ。訳があるなら言ってみなッ」
紅花は目を剥いて玉露を見る。
意外だったのである。
威勢のいい啖呵ではあったが、その内容は口火を切ったというよりも水を差し向けたに等しかったからだ。
「了見? 了見ですって? 馬鹿をお言いでないよッ」
女が吠えた。
思いのほか細く可愛らしい、まだ娘っぽさの残る声である。
大声を出し慣れていないのか、所々上擦り、裏返り、金切り声でこそないものの、声質のわりに耳障りに響く。
「了見なんざ、誰よりあんたがお分かりだろうよッ、この女狐ッ。
いいや、女狐ですらない。男のくせに男を喰らう鶏姦の古狸がッ」
「鶏姦って……。
あんたそりゃあたしを詰ってるって云うより、手前の亭主の悪口になってんじゃないさ。
あたしが鶏で、それを姦してんのが亭主って話だろ。賢いんだか賢くないんだか」
呆れた。と溢しながら、玉露はようよう腰をあげる。
先程の剣呑な雰囲気はすでに、玉露からは雲散していた。
「あ痛たた。こりゃ擦りむいちまったかねえ。大事な商売道具に瑕つけるなんざ、とんでもない女だよ」
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