六幕の四・妬気

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先の蕎麦屋の店主の亡き妻のように、悋気(りんき)(こら)え、妬気の漁火を胸に収め、知っても知らぬ顔をして焼き餅などはおくびにも出さぬ、 そうした妻の振る舞いに(おとこ)は気高い心意気を知り、強く揺るがぬ芯を知り、 深く広い菩薩にも劣らぬ慈悲を知り、女だてらの美学を知り、 あえて口には出さないけれど頭の上がらぬ思いを胸に、密かに惚れ抜き、尊敬の念を抱くのではないか。 或いは嫉妬に駆られるならば、 嫉妬などせずとも済むよう、夫が余所見などせぬように、骨抜きにしてやればよいのである。 そうできぬ己の(まず)さを棚に上げ、嫉妬を劫火と燃やすはお門違い。 尽くすでも媚びるでも拗ねるでも良い、着飾るでも手入れするでも胃袋を掴むでも構うまい、 手を変え品を変え仕掛け絡めて、思い慕われるに値する(じぶん)になれば、 夫も金子を払ってまで他所で娼妓(おんな)を抱きはしないのではないか。 だとすれば、女郎、芸者、陰間といった玉露のような存在は、 女が女を磨くための試しみたいなもんである。 これを怨むは器が小さいというもの。 ……とは、思うものの、やはりそれではあんまり女性が可哀想な気もする。 夫の不義を耐えてなんぼ、乗り越えてなんぼというのは、男の勝手が過ぎるだろう。 嫉妬の余りに娼妓の乗った俥の俥夫を突き飛ばし、 夫を寝取った憎い玉露(かたき)を引きずり出して仁王立ちする、 正面切って罵倒する女というのは、 それはそれで圧倒されるものがあったし、あれはあれで美しいと形容できぬこともないのかもしれない。 惨めで無様な醜態と、切って捨てるのは誤りかも知れぬ。 そうも考え、紅花が視界から外していた女に再びそっと、目を向けようとした時、 キィィィッとも、キエーーーッともつかない、奇声が耳を突き抜けた。 「な――」 「何の真似だい」と言おうとしたのか、それとも「何事だい」だったのか、 はたまた「何さ」なのか「なんなのさ」だったのか、 玉露の口から出かけた言葉は、一音きりで不意に途切れた。 どん、という衝撃で、紅花は再び気づけば地面に転がっている。 今度は前のめりではなく、後ろにすっ飛ばされていた。 押されたのか、突き飛ばされたのか、薙ぎ払われたのか判然とはしないけれども、玉露の腕にやられたように思う。 尻餅姿で目を白黒させ、眩む頭を上げた紅花は声を失くして息を呑んだ。
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