六幕の四・妬気

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「あんたなんかッ、あんたなんかッ。(いや)らしいだけの淫売のくせにッ。男のくせにケツ振って、誰の摩羅(まら)でも咥え込むくせにッ。あの人の善いところなんか、ちっともわかりゃしないくせにッ。好きな食事の味も、お湯の熱さも、なんにも知りやしないくにッ。どうして、どうして、あたしがッ、あんたなんかにッ」 立て板に水と浴びせる女の罵倒の声に、別のところからの悲鳴が混じる。 紅花は凍り付いていた。 初めに目に映ったのは多分一度目、 女は玉露の真向かいで額を付き合わせそうな距離に居た。 その後ろに草履が片方転げている。 黒い漆の、蒔絵の施された、絹の鼻緒の、品のよい女物の草履。 女の足の片方が、足袋だけになっているのが白々と、やけに紅花の目に焼き付いた。 赤いものがポタリ、ポタリ、 その白足袋に小さく丸い絵を描く。 僅かに女の体が玉露から離れ、そこに鈍色の刃物が見えた。 太帯を巻いた脇腹から、ぬっくと刃が抜き出される。 銀鼠色の道行が赤く濡れ、足を止めていた通行人の誰かが悲鳴をあげた。 それから二度、三度目と、 女は罵倒を浴びせながらも玉露に体当たりを――否、両手に握り低く構えた包丁を突き刺したのだった。 頭ではそれが分かっている。 けれど紅花は、自分の目に映っているものがなんなのか、理解できない。 凍り付いたまま、尻餅から立ち上がれもせずに、 玉露を呼ぶことも悲鳴を上げることも、絶叫もできずに、ただ瞠目して見ている。 見ているけれど、見えていない。 両の瞳が、小さな頭が、全身が、理解することを拒んでいる。 四度(よたび)、否、五度(ごたび)目だろうか、 絶え間ない罵倒の間に間に女が凶刃を振るおうとした時、グッと女が押し留められた。 遠目には互いの着物の袖や袂で何が起きたか分からかなかったかもしれぬ。 しかし紅花は間近な地面にへたり込んでいた為、よく見えた。 見えたけれども、まだ思考は追いつかない。 玉露は女の手首を掴んでいた。 包丁の柄を握る、女の両手首を片手で一絡げに。 (なり)は女でも玉露は男、女の細っこい手首などは、片手で捕らえられなくはない。 玉露に圧し戻されたものか、じりと半歩下がった女との間に、切っ先を染めた包丁が見えた。
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