六幕の四・妬気

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「幾らなんでもやり過ぎだ」 紅花がこれまで耳にしたことのない、低く、掠れた、玉露の声が絞り出される。 「これ以上やったら、あんた本当(ほんと)に殺しちまうよ。  あたしが死んでも泣くなぁ高が知れてるけどね、あんたが人殺しになっちまったら、亭主が泣くどころじゃ済まないんじゃないのかい」 グッと玉露が力を込めたのが、肩口の揺れで分かった。 からんとやけに乾いた音を立て、女の手から離れた刃物が地面に落ちる。 その響きが鼓膜を打った刹那、 「哥さんッッ」 紅花は我を取り戻した。 悲鳴して、まろびながら駆け寄る。 己が脛の痛みなど忘れた。 ぐらりと玉露の身が傾ぐ。 半分ほどの目方しかない少年に受け止められるはずもなく、けれどもそんな考えは端から飛んで、紅花はその身を抱き止めようと両腕を伸ばした。 玉露はその腕に縋りながら、ゆっくりと地に尻を落とす。 流麗な目元が紅花に向けられ、大粒の瞳が潤々(うるうる)と濡れているのを見て、彼は微かに笑みを刻んだ。 「ほんにあんたは泣き虫だねぇ。死にやしないから安心しな。あたしを誰だとお思いだい」 嘯く声は、けれども掠れていがらっぽく、途切れがちで、言葉の威勢を裏切っている。 女は突っ立っていた。 取り落とした刃物を拾うでなく、取り落とすほど絞められたなら多少なり傷めただろう手首を庇うでもなく、突っ立っている。 震えていた。 それはもう、傍目にもそうと知れるほどわなわなと。 腹を刺されて息も絶え絶えの玉露より、その事態をようやく呑み込み今しも泣き叫びだしそうな紅花より、 女は諤々(がくがく)として蒼白となり、立っているのが不思議なほどに震えていた。
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