六幕の四・妬気

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「まったく、子猫みたいに震えちまって、そんな小さい肝っ玉でよくもまあ」 自分の腹に染み出す血の色と、立ち尽くす女とを見やって玉露が言う。 その声は殊の外、柔らかい。 「こんな事を仕出かすくらい惚れた男と結ばれたんなら、終生大事にしておやり。  あんたの亭主があたしの旦那で間違いないなら、きっとあんたを責めやしないさ。  こうまで想われて、想うてくれる本妻(あいかた)を、捨てるような男なんざこっちから願い下げだからね」 玉露の口調は穏やかで、声色は幼い我が子に寝物語でも読み聞かす母のそれのように優しく温かい。 実際には途切れも掠れもしていたけれど、それで尚、そのように紅花の耳には届いた。 女も同じだったのやもしれぬ。 ハッと息を吸った女の唇から、 「ごめんなさい」 と、子供じみた声がこぼれた。 女の目に涙が膨らんで、それがぽろりと落ちるのと同じに、膝が折れ、小紋に包まれた華奢な体が崩れ落ちる。 その形相は、もう般若の面などではなかった。 眸に滾っていた妬気は、涙と共に洗い流されたのだろう。 ピピーーッと、遠方から鋭い笛の鳴らされるのが聞こえた。 居合わせた誰かしらが憲兵なり官憲なりをを呼んだのに違いない。 「逃げなくていいのかい」 玉露の言葉に、女はただふるふると首を左右した。 丁寧に整えられていた丸髷から、ほつれ毛が一筋、細い首筋に流れている。 哀れだと紅花は思った。 それと同じくらい、憎らしいとも。 そして凶刃に見舞われて尚、毅然として石動無(いするぎな)く、相手に温情を掛けすらする、玉露を美しいと思った。 誇りに思った。 けれどとても、恐ろしい気もした。
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