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「ところで、いつものおチビさんは居ないのかい」
ついでに洋風な花の活け方でも教えてやろうと思ってか、『天満堂』の主人が訊く。
「じきに来るんじゃないかい。店の仕事だってあるからね。
一日中ここに居たってしょうがないんだから、適当に通ってるよ」
玉露はすげなく言うが、紅花は相当ゴネたのである。
日頃、素直で従順なのが取り柄の少年が、珍しく師匠譲りの強情さを発揮した。
一日中付き添って離れない、ここで寝泊まりして帰らない、と。
要するにそれだけ心配だったのだ。
目の前で玉露が腹から血を流し、病院に担ぎ込まれたのだから無理もない。
当初、紅花は玉露よりよっぽど重傷なのではないかと思える青い顔で病院の廊下に佇み、
玉露の消えた恐らく緊急用の手術室の扉を見つめ続けていた。
見かねた職員が声をかけても気づかず、膝の手当をしてやろうと別の医師が手を引いても巌のように動かなかった。
少年が我に返ったのはずっと後、
突然の呼び出しに驚いた『梅に鶯』の店主の女房が駆けつけてからのことである。
玉露はそうとは知らないものの、想像はあまり難くない。
病室で目覚めた時、店主の女房は安堵に涙ぐんだけれど、紅花はじっと目を凝らすばかりで泣いたりしなかったのも、
きっとその前に散々っぱら不安で泣き咽んだ後だからだろうと玉露は得心した。
或いは本当に玉露が助かったのか、まだ疑って、完全に見極めるまで、
不用意なぬか喜びで後になって傷つくまいと、幼い心を無意識に守ろうとしていたのかもしれぬ。
いずれにせよ健気なことだ。
だからと言って、紅花に謝るのも感謝するのも筋違いだと玉露は思うから、
段々と赤くなってゆく小さな鼻先を、まだ重く感じられる指先でツンと弾いてやったなり、以降は普段通りに接した。
離れたがらない紅花を店に帰したのも、それが玉露の考える普通のことだからだ。
紅花は玉露の部屋付きの小僧だが、それは『梅に鶯』の陰間見習いとしてであり、玉露の従僕ではない。
院内における玉露の看病は、紅花の仕事ではない。
病院の者の仕事だ。
「姐さんって、たまに冷たいねえ。あの子は好きな相手の傍に居たいだけだろうに」
「よしとくれ。ガキに懸想されたって嬉しかないよ」
紅花を庇う言い分を戯言と一蹴された店主は、
恨めし気な目つきで玉露をちょっと睨んでから、無駄のない慣れた動作で花瓶と花とを抱えてゆく。
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