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見送った玉露は再び棚の手紙に目を落として、引き剥がすように天を仰いだ。
仰いだところで目に映るのは馴染みのない天井だけだ。
少々やけくそな気分になって目を閉じると、
瞼の裏に浮かんできたのは、封書の中に元通りしまった白い便箋に綴られていた、余り巧いとは言えない筆跡だった。
万年筆を使い慣れていないのだろうと一目で察せられる金釘文字。
だが丁寧に一文字一文字、心を込めて綴られたと分かるインクの滲み。
手蹟の主は客だった。
文字を見たのは初めてだ。
つまり、手紙を送り合うほどの間柄ではない。
年に一度か二度来るか来ないかの、上客とは呼べない馴染み客だ。
齢は確か、六十を幾つか過ぎていたのではあるまいか。
詫び状であった。
何を詫びるか。
無論、玉露の身に降りかかった凶事についてである。
何故に彼が詫びるか。
彼がかの女の舅だからである。
何故に舅が詫びるのか。
舅が玉露の客だからである。
即ち、女の妬気の由来は舅であった。
彼女の夫はまるきりの朴念仁で、妻の他には女を知らぬ男だ。
女の味も占めぬのに、陰間を買って遊ぶわけもない。
夫は女遊びもしなければ、衆道に戯れるわけもなし、賭け事もせず、酒は飲んでも過ぎることのない、真面目一徹であるらしかった。
女も女で、そんな夫に甲斐甲斐しく仕える良妻の鑑みたいな女であったらしい。
惜しむらくは三十過ぎて未だ子を授からぬことぐらいで、
家事の手際は良いし料理もまずまず、財布の紐は固くて無駄遣いをせず、
かと言ってみすぼらしくもなく身形はきちんとし、愛嬌はなくとも愛想はある。
良い事である。
良い事だが、幾らか堅苦しくもある。
というより味気ない。
面白みのない夫婦だ。
まあ舅から見れば息子夫婦が真面目なのは悪くないのだが、
当の自身が足繁くはなくとも茶屋通いをしているとあっては、なんとはなしに肩身が狭くもあったのだろう。
古女房には少し前に先立たれ、愚痴を言う相手もなかった舅の男は、
からかい半分、自己弁護半分で、そんな二人の有様を皮肉った。
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