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だからだろうか。
蕎麦屋の前に俥が停まっていたという話を聞き、
もしも玉露らが寄り道せずに帰るのだとすれば道筋から言って一つ向こうの通りをそろそろ走るかもしれないから、ちょっくら見物していこうかなどと軽口を叩き合っているのを聞いた時、
女はフッと店を出た。
使いの品は買わずじまいだった。
通りを横切ると向かいの店は砥石屋だった。
砥ぎ師が実演して見せる目的だろう、毛氈を張った木箱に数種の砥石と小道具、鋏などの刃物が収めて飾られてあった。
女はその中で鈍色に光る包丁をヒョイと取り上げた。
盗もうとは思わなかった。
そもそもこれは売り物ではない。
借りるだけだ。
借りて、何をしようとは考えていなかった。
自分でも何の目的だか、何をしようとしているのだか、何のために向こうの通りに行こうとしているのだか、よくわからなくなっていた。
ただ鼓動ばかりが早く、こめかみが痛いくらいだった。
気づけば女は走り出していて、
華やかな日本髪に簪を揺らす艶やかな姿を目に焼き付けながら、
その人を乗せた人力を引く俥夫めがけて、体当たりを繰り出していた。
――らしい。
舅の手紙の語るところによれば、である。
舅は己の至らなさを詫び、それによって嫁の引き起こした凶事を詫び、その憐れな経緯を語っては詫び、
最後に、女を訴え出なかった玉露の恩赦に感謝して手紙は締めくくられていた。
馬鹿馬鹿しい。
玉露は心底、馬鹿馬鹿しかった。
何がと言って、己の的外れな振る舞いがである。
てっきり夫を寝取った恨みだと思って、妙に優し気な言葉までかけてやったのに、全然真相は違っている。
見当違いもいいところだ。
読み終えた直後、玉露は顔から火が出る思いであった。
穴があったら入りたいとはこのことである。
いっそ死んでしまっとけば良かったとすら本気で思った。
あの時の一部始終、自身の発した言葉の全てが、恥ずかしくって堪らない。
病室で一人きり、縫われたばかりの傷口に両腕を突っ込んで腸を掴みだし、憤死してやろうかとすら考えた。
が、そんな馬鹿な。
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