七幕の一・宵の口

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みな一階の甘味処で店主の親父に挨拶し、 しかして自慢の素人和菓子には目もくれず、空いた席を探ることもなく、 奥へと進んで上がり(がまち)をひょいと跨ぐ。 細い廊下を渡って坪庭を横目に、薄暗く急な階段を上ってゆく。 庭では春の芽吹きを待つ苔や低木が、しかし冬枯れに耐えて灰色に染まっている。 板葺(いたぶ)きの階段もまた、灰色がかった薄茶色。 土の塗られた壁もまた。 彩りを失くした細道は胎動巡りを思い起こさす。 心許なくなるような仄暗さの中、ぽうっと滲む火が客を導く。 それは紅花の手にした(あか)りであり、座敷の前で揺らめく灯篭の()であり、 これから目的の人に会うのだという、客の期待の光でもあるだろう。 玉露を(おとな)う客を階下まで出迎え、 脇役は脇役らしく気配を消しながらしずしずと客室まで彼らを先導する、 この案内(あない)役の仕事が紅花は嫌いではない。 連れ立って歩く間、客と言葉を交わすことはほぼないけれど、 無言のうちのこの短い時間に、じりじりと焦がれるような客の玉露への想いや、 足早になりたいのを堪えて紳士ぶる男のもどかしい熱量や、 そうしたものを(せな)や項や後頭部で、肌に感じることはある。 すると紅花は、なんとも言えず誇らしげな心地がするのだ。 が、今宵は別である。 五人、六人、七人、八人、 次々とやってくる客を迎えては案内し、降りて上がってまた降りて、 いったい何往復すればよいのか。 急な階段の上り下りを繰り返して、膝が笑ってしまいそうになるのを堪えるだけで手いっぱいだ。 だが客は十人やそこらでは済まぬ予定である。 みな玉露に会いに来る。 今夜は、玉露の快気祝いの宴が催されるのだ。 立案者は言わずもがな、猪田(いのだ)興作(こうさく)その人である。 と、言いたいところだが、意外にしてトキワであった。 そもそもからして例の一件以来、猪田は玉露と顔を合わせていない。 猪田に限らず、玉露の客の誰もがそうである。 唯一、トキワだけが飄々と玉露の見舞いに訪れていた。 彼は客というよりも、互いに互いを情報交換に役立てる同士のようなものだからであろう。 玉露もまた、自身が休みを余儀なくされている間の客らの動向が気になるのか、常ほど邪険にあしらいはしなかった。
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