七幕の一・宵の口

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一年三百六十五日、夜毎に客を迎えてきた身には倦み疲れるに充分過ぎる療養の後、 『梅に鶯』の自室へと身を移した玉露の元にも、トキワはふらりと立ち現れた。 話題は自然、復帰はいつ頃になるのかへと流れた。 これには玉露も頭を悩ませていたものらしい。 いつか、などというのは実際のところさして問題ではない。 問題は誰と、である。 玉露が凶事に見舞われたことは、この界隈では知らぬ者がない事実であった。 まさか片田舎の娼妓の刃傷沙汰が新聞一面を飾ることはなかったけれども、 それなりに面白いネタとして瓦版が撒かれたし、 そうでなくとも人の口に戸は立てられぬ。 白昼堂々、往来での出来事とあって目撃者も少なくない。 外聞の良い話ではないからと、いくら揉み消そうとしたって消しきれるものではなかろう。 むしろ、咄嗟に猪田が話題の火消し活動に乗り出したことで、ひそひそ話として一層人々の好奇心を駆り立てた面は否めない。 えてして猪田の行いなぞは裏目に出るのがオチである。 尾ひれハヒレを纏いながら噂は広まり、結局、公然の秘密と相成ってしまった。 (もっと)も、人のうわさも七十五日、いずれ忘れ去られるのも時間の問題である。 ただ、忘れようにも忘れられぬ者らも居る。 玉露が仕事に立てなくなったことで、予約していた席を流されてしまった客たちだ。 それ自体は仕方がない。 まさか、約束は約束だからどうあっても席に着けと無体を強いる客などおらぬ。 問題はその後、恢復した玉露が客を迎えるにあたって一体誰が一番乗りになるかであった。 元より玉露の予定は先々まで埋まっている。 順当に考えるなら、その予定の通りに復帰の当日、予約していた客という事になる。 そうれはそうに違いない、のではあるが。 何も、いついつこの日に必ず復帰せねばならぬと医者の指示があるでなし、 充分具合が良くなった頃合いを見計らって戻るのだから、どの客の日を選ぶかのか、それは玉露の気持ちひとつである。 言い換えれば、その日の客こそ玉露の一等心を傾ける相手であると、そう受け取ることも可能であろう。 別段、娼妓の客など夜毎に取っ替え引っ換えなのだから、拘る筋の話でもない。 が、そこを無暗矢鱈と気に掛けるのが男というもの。 色恋を模した間柄である以上、そして他に競争相手が居るのが明白である以上、自分が一番になりたいに決まっている。 否や、己だけが特別の、唯一無二の本命であると、そう証明されたいに決まっている。 男心とはそうしたものだ。 機あらば勝ち名乗りをあげたいものなのである。 手玉の如く弄ぶほどに男心を熟知している玉露が、そこを踏まえぬはずもない。 さて、どうしたものか。
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