七幕の二・酔いの中

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七幕の二・酔いの中

こんなことは後にも先にもなかろう。 ドンチャン騒ぎの乱痴気騒ぎ。 『梅に鶯』の(おも)だった客が一堂に会し、且つ店主の親父にその女房、 顔見知りの従業員や昼間に出入りしている陰間もどきに加え、 果ては唄や踊りの師匠筋の芸妓やまでもが集まって、 膳を据える隙もないような密集状態。 もはや誰が誰を祝い、もてなしているのやら。 ただもうワイワイと飲み交わし、笑いさざめき、三味が鳴り、 老いも若きも日頃の立場も、男も女もない無礼講。 燭台の()に映された人々の顔は、みな輝き、火照り、時に影を長くし、ゆらゆらと揺らめいて、 紅花はいつしか夢幻の内に迷い込んだような心地になっていた。 己が役目はすっかり忘れて場の空気に酔っている。 それを叱る者さえなかった。 紅花が生真面目にお酌して回るまでもなく、 皆めいめい好き勝手に注ぎ合っていたし、 何より猪田の働きぶりが本業の幇間(ほうかん)と見紛うほどで、 絶えずあちらこちらと動き回っては下らぬ芸など見せて笑わせる。 もしや玉露の快気祝いというのは名目で、 自身の顔つなぎが真の目的ではないかと思わせるほどのご活躍だ。 挙句、猪田は何を思うか、 『梅に鶯』の店主の親父のろくでなしの倅であるところの(うしお)まで引っ張り込んでしまった。 過日の一件以来、幾分萎れてなりを潜めていた潮は突然のことに目を白黒させ、 いきり立つ間もないうちに猪田に乗せられ、周囲に囃し立てられして、 ぎこちなく幇間の真似事に勤しんでいる。 これには紅花も胸のすく思いであったが、やはりそれ以上に現実味がなく、 呆け面を晒して眺めていた。 何やらすべてがキラキラと金粉でも撒いたかに見える。 視界が酩酊していた。 色々の色がいやに鮮やかに目の裏に焼き付き、それでいて輪郭は常にぼやけ、 何もかが静止を知らずに移ろい続ける。 誰のものとも聞き分けられぬ混じり合った歌声、話し声。 鼓膜に響く音までもが輝きを帯びた波と渦でできているかのようだ。 取り留めのなくなった五感と思考で、時折ぼんやりと感想を抱く。
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