七幕の二・酔いの中

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うだつの上がらぬ三文文士から文壇に名を連ねるようになった篠山(ささやま)一新(いっしん)は、 相も変わらず地味でパッとしないが以前より幾らか堂々として見える。 似合いもしなければ仕立ても悪い洋装をよして、羽織袴を着ているせいかもしれない。 それとてさほどの品ではなかろうが、少なくとも服に着られていないし肌に馴染んでいる。 猫背は猫背でも、首を竦めて縮こまっているのではなく、無理のない自然な様子に見えた。 品行方正を絵に描いたかの如き堅物の占部(うらべ)粋正(きよまさ)も、 今宵は幾分寛いで愉快そうにしている。 きっぱりと白く清潔な糊の利いたシャツの襟元が、 珍しく(ボタン)一つ分、緩められているから余計にそう思えるのか。 酔いが回っているようではないが、 日頃、真一文字に引き締められた唇の端にほんのり浮かぶ笑みの気配や、 キリとした目元に僅かに差した朱の色に、酒気が滲んで男の色香を感じさせる。 まるでそれに吸い寄せられ、今にも口説こうとしているかの距離で、鳳ノ介(おおとりのすけ)が相伴していた。 言わずもがなの色男ぶりを、祝宴とあって華やかな着物で飾っている。 毛色は違えどいずれも美男、並んでいる様は奇妙な取り合わせながらも眼福である。 あまり共通項のなさそうな二人であるが、話はそこそこに弾んでいるものらしい。 それでもふと会話が途切れると、揃って目を細くするのが印象的であった。 どちらの視線の先にも、あるのは玉露の姿だ。 それを見る二人の眼差しの遠さが何やら切ない。 誰の手の中にも容易に落ちて、誰のものにもならぬ花。 それを摘み取っては一喜一憂する己を嘲笑うように、ふっと息を漏らして恋しい者への眼差しを剥ぐ。 そしてふと、同じ境遇の互いに気づいたように苦笑じみたものを交わす。 そんな占部と鳳ノ介の様子が、紅花の胸を疼かせた。 玉露はゲラゲラと大口を開けて笑っている。 何に、誰に、面白がらされたのか、品のない大笑ぶりだ。 それでいてどうしてあんなに美しいのか。 美醜とはなんだろう。 夢見心地の間に間に紅花はそんな思索を彷徨わせる。 多分、外容(かたち)ではないのだ。 ならば内実(なかみ)かと言えば、それはそれで(しか)とは言えぬ。 玉露の(うち)は計り知れぬ。 ああも明け透けで、そのくせ底の見えぬ肚。 それが美しいか醜いかなど推し測りようもない。 分からない。 分からないが故に、美しく思えるのかもしれない。 人とは容易に判じきれるものにはさして興味を抱かぬ。 興味をそそられぬものを美しいとは感じまい。 なれば美しいさとは、常に謎めいて理解の及ばぬものにのみ宿り得るのかもしれない。 だとすれば、 玉露が美しくある限り、彼は誰にも理解されぬ。 当然、玉露は美しくあり続けることを己が身上としていよう。 そうである以上、玉露は誰にとっても掴み切れぬ謎を秘めた存在、 誰にも分かられることのない孤高の存在だ。 暴きたい。 不意に、紅花は衝動を抱いた。 男を手玉に取って遊興に耽り、嘘も(まこと)も計り知れぬ、 そんな玉露の本当のところを自分だけは知ってみたい。 これほど近く仕えながら、誰より長く一緒の時間を過ごしながら、 今なお玉露という男の真情をいっこう分かりかねる己がもどかしい。 誰が好きで嫌いなのか、本当に惚れているのは誰なのか、 何が嬉しくて厭なのか、本当はどうして欲しいのか。 全てを詳らかにしてみたい。 その美しい装いを剥ぎ取って、血肉に滾る真相を、誰より深く知り尽くしたい。 暴き立てたい。 そうして叶うことならば―― それは、まだ幼く相手を慕うばかりであった少年の裡に不意に沸き上がった、雄の本能であるかもしれなかった。
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