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「おチビちゃん、おチビちゃん」
呼ばれて思考が寸断される。
目を向けた先では、
猪田がいつの間に用意したのかひょっとこの面など頭の片側に引っ掛けて、不細工な踊りを披露している。
鈍感なくせに目敏いこの三十男は、紅花が場の空気に中てられぼやぼやしているのを見逃しはしないらしい。
踊っているのか溺れているのか、判然としない動きで手招きしていた。
「綺麗どころがあっちに逃げちまったや。
おチビちゃんでいいから、ちょっくら小唄でも謡いなさいよ」
おチビちゃんでいいから、とはお言葉である。
それ以前に、歌は拙い。
尻込みした紅花であったが、一方で、歌うくらい構わないではないかとも思う。
どうせ誰もまともには聞きやしない。
下手でもなんでも構うまい、と。
頭のネジが緩んでいる。
いそいそと立ち上がろうとしたところで足がもつれた。
裾を踏んだのである。
常ならばあり得ない粗相だ。
飲んでもないのに酔うている。
眩々とした頭では驚くのにも一拍遅れて、
「あ」とも思わないままに前のめりになったのを、温い体が受け止めた。
舶来品の香水だろうか、それとも単に充満する酒気か、
甘い香りと毛織物の衣の感触。
赤や桃色や黄色や橙の細かな粒が散らばった霰のように見えるのは、混紡の複雑な模様をごく間近に見ているせいだ。
布地に沿って目を上げると、猪田がまろびかけた紅花の体を抱き止め、支えてくれている。
毛織物は猪田の背広である。
紅花はどぎまぎした。
この男に魅力を感じたことなどかつて一度たりとてありはしない。
が、いざ腕の中に抱かれると、その感触の確かさ、温さ、体の厚み、
猪田ごとき小男でも紅花よりはずっと逞しいわけで、頼もしくすらあり、
その胸に顔を寄せ、その腕にすっぽり包まれていることに、鼓動が乱れ、顔が熱くなる。
そんな己に戸惑って、紅花は殊更慌てて身を引き離した。
赤面した紅花を、お座敷で転びかけたのを恥じてのことと猪田は捉えてか、
特に気にする様子もなく、気安く手を引いてバカ騒ぎの輪に加えようとする。
紅花は握られた手をぼんやり見つめ、引きずられるまま覚束ない足取りを運ぶ。
その態に目を投じた玉露が、
「ちょいと旦那、あんまりうちの小僧っ子を振り回さないでおくれよ。
愚図なんだから、どうせ役に立ちやしないよ」
庇い立てかと思いきや、情け容赦ないことを言う。
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