七幕の二・酔いの中

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「そう仰るなら僕のお相手もして下さいよ」 「御免だね。幇間もどきにゃ用はないよ。せいぜい姐さん方々おもてなししな」 「なんとまあ、つれない人だ。  こうなったら僕ぁおチビちゃんを口説いちまいますからね。後で悔いたって知りませんよ」 猪田はお調子者らしい軽薄さで、 さして堪えたふうもなく勝手なことをほざいて適当な席を探す。 呆けた紅花は、よもや本当に口説かれるとは思わないまでも、 そのやり取りに耳を赤くしながら宴席の輪に呑まれていった。 それを、少年に負けず劣らず呆け面した篠山が見送る。 いつの間に座が移ろったものか、自身でもわからぬうちに篠山は玉露の隣席を占めていた。 作家業でも同じである。 つい先頃までうだつのあがらぬ三文文士であったものが、 この頃では文壇に名を連ねているらしい。 何をどうしてこうなったのか、篠山自身にはとんと分からない。 やっているのは以前も今も同じ、 誰を喜ばそうと言うのでもない面白いのかもわからない下手な文章を書き連ねているだけである。 多分、猪田の手腕が良いだけだ。 「私は……」 口を開いてみたものの、続く言葉が茫洋として、幾つも浮かんでは泡となり、声もまた泡沫に途絶えた。 「ん」 何か言ったかい。 と、赤く濡れた唇が問う。 その間近さに、篠山は一層ぼんやりする。 独楽(こま)回しを思った。 子供の頃の遊びである。 よく近所の子らで集まって、独楽を回したりぶつけあったりする遊びをした。 篠山は貧しく、独楽のひとつも買ってもらえぬ家庭に育った。 今思えば病身だったのかもしれぬ痩せた母だけが、家計を支えていたのだ。 長屋住まいで、父も兄弟も居らぬ代わりに、 近所の小父(おじ)さん小母(おば)さんガキどもと家族同然の付き合いであった。 篠山は独楽を持っていない。 けれども、独楽回しは盛んにした記憶がある。 誰かが貸してくれたのだ。 貸してくれと頼んだ覚えはない。 幼い当時も今と変わらず、おどおどとして人に頼みごとのできる気性ではなかった。 だがいつの間にか、独楽は手の内にあって、当たり前のように使って遊んだ。 持ち主が誰かも知らぬものを。 そうして気づけば、また別の誰かがそれで遊んでいる。 凧や剣玉、メンコやおはじきにしても同様だった。 きっと順繰りだったのだ。 順々に、誰もが遊べるよう気遣ってくれる、(さとし)く、目配りの利いた者があったのだろう。 凡庸な己はその恩恵に預かって、その有難みに気づく賢さもなかった。 今こうして、小なり作家として名を上げて玉露の隣に座っているのも同じこと。 功を奏したは自身ではない。
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