七幕の二・酔いの中

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「お疲れかい」 労わりを込めた声色が鼓膜をくすぐり、白い手が腿の上に添えられる。 じんわりとした手の平の熱が布越しに肌へ伝わっても、篠山にはなんとはなし真実味がなく感じられる。 「先生は騒がしいのはお好きじゃないものねぇ」 決めつける言葉を、押しつけがましくなく吐くのが不思議だと、 そんな感想を抱きながら玉露を仰いだ。 玉露の背筋はすうと美しく伸びているから、猫背の篠山は見上げる格好になる。 「『先生』は――」 止して欲しいと控えめに伝えると、 「相も変らぬこと」 と、玉露はカラカラ笑った。 その通りだと篠山は思う。 変ってゆくのは周囲の風景で、それを動かす人どもで、自身は昔から変わり映えしない。 それを口に出せたなら、そうではないと玉露は教えたかもしれない。 紅花が見て取った程度には、この貧相で自信のない男は男なりに、一皮も二皮も剝けようとしている。 しかし文筆業でありながら、人一倍に口下手な篠山は言葉にできぬ。 玉露とて何もかもを見透かせる訳でもない。 どうにも少し噛み合わぬものを感じつつ、 小首を傾げて(あで)な目元で男の俯きがちな顔を覗き見る。 「いっそのこと、しっぽりと二人きり抜け出しちまおうか」 冗談めかして玉露が誘う。 今宵の主役は彼である。 本気でないのはさすがの篠山にも明白だったから、狼狽えずに済んだ。 とは言え、気の利いた返しもできはしない。 「土台無理な相談か。  篠山の旦那はまだ、あたしの手を握っちゃくれないんだものね」 言って玉露は笑みを深めた。 膝の上の手が離れ、口元に添えられる。 ひらひらと白いそれは、蝶の飛ぶのを思わせた。 「その……」 花から花へ、舞う蝶を捉えられはしまい。 そんな、ある意味たかを括った心地を抱き、 篠山は無自覚に玉露の手を追いかけようとして半端に手をもたげる。 一方でまた幼い頃の順々に回ってきた遊びを思い、変わり映えせぬ己を省み、いつかの夜の遣り取りの遠さを感じながら声を漏らす。 「篠山、も、止してはもらえないでしょうか」 自身でも意外な言葉が続いた。 だが言ってみて、それはそうだという気になる。 はて、と小首を傾げる玉露を見上げ、訥々と言い募った。
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