七幕の二・酔いの中

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「篠山一新というのは、その、本名ではない、のです。  作家らしい名をと思い、それらしい響きのものを……」 要するに格好をつけた。 尤もらしさを装った。 張りぼてなのである。 「笹川……、笹川新一(ささかわしんいち)というのが、親から貰った本当の名なのです」 「そうかい」 言った玉露の声に僅か潜んだ乾きに、篠山は気づかなかった。 「ですから……」 言いかけて、言い淀む。 笹川の旦那と呼ばれれば満足なのか。 それで何が満たされるのか。 何が違い、何が変わるのか。 より真実に近づけた気がした一瞬が、けれど虚構(うそ)くさく思え始めた。 「ね、旦那」 どこからか玉露を呼ぶ声が上がり、(まなじり)高い双眸がついと篠山から外される。 「いつかあたしの名を呼んでおくれね」 立ちあがりざま玉露がそっと言い置いた言葉に、篠山は虚を突かれて忘我となった。 さりさりと(かそ)けき衣擦れと共に、美娼の背は遠退いていった。 「おや、主役のお出ましだよ」 「久方に三味の腕前を聴かせておくれな」 玉露の進んだ先で集っていた妙齢の女たちが手を泳がす。 いずれ(あで)だが婀娜(あだ)っぽくはなく、娼妓でなく芸妓と知れる。 尤も、招かれた席で客と床入りする芸妓もまま居ることであるから、本当のところは知れたものではない。 (あに)さま、哥さまと、おちょぼ口に紅を注した唇たちが揃って囀る。 玉露は招かれるまま輪に加わりつつ、眉間に皺を刻んだ。 「そこな小娘どもは良いとして、  あんたみたいな年増に哥呼ばわりされたんじゃ、あたしがとうに老けてるみたいじゃないさ。  冗談じゃないよ」 ペッペと唾を吐きそうな顰め面してみせて、女らのうちの一人を睨みつける。 凛として美しい女であった。
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