七幕の二・酔いの中

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彼女の他には女たちの中に知った顔はなかったが、 聞けばかつての踊りの師匠やら何やら、懐かしい名が出てきて話に花が咲く。 酔いも手伝った女たちの囀りは朗らかで他愛もなく、鼓膜をくすぐるようだ。 「哥さま、そろそろ腕前をご披露くださいましな」 女が膝に抱えた三味を差し上げて言えば、玉露は「いやだよう」とやわく押し返した。 「本職と腕を競うなんざ御免だよ。  このあたしに恥を搔かせようって魂胆かい」 言いつつも、まんざらでもなさそうに玉露は彼女の横に座す。 ふふと哂って請け合った女は、びぃん、びいん、と三度ばかり、短く弦を震わせた。 やがて、骨のように端整な象牙のバチが小気味よい音色を弾きだす。 かしましくおしゃべりに興じていた女らが相次いで腰を浮かせ、奏でに合わせて踊り始めた。 そこへ、朗々とした声が加わる。 女のそれより太く強く、男のそれより柔らかに高く、 潮騒にも似た懐深さと、か細い(いと)の震えを備えた、 それは三味の音と共にうねりながら広がる、玉露の唱声であった。 「おや」 と、いつしか両手に花ならぬ両隣に『梅に鶯』の店主と女房を従えて持て成されていた八木翁が目を上げる。 互いの寡黙が相通じたか肩を並べた占部と篠山が、 釣られたように時を同じくして傾けかけていた盃をゆるゆると下げ、 潮に猪田、その他の面々も同様に、好き勝手はしゃがせていた口やら手やらを止めた。 今宵の主役へと一同の視線が吸い寄せられる。 何がどうなってそうなったのか、 何故だかちょこんと鳳ノ介の胡坐の中に納まっていた紅花は、はたと我に返って慌てて身を引きながら、 その若衆髷も瑞々しいいなせな肩越しに玉露へ目をやった。 玉露は花園にでも居るように見えた。 色とりどりの着物を纏った女たちに取り囲まれて、女以上に女らしい艶姿をした男が一人、 三味を掻き鳴らす紫の着物の女に付き添われ、楽しそうに歌っている。 (てら)いなく、外連味(けれんみ)のない表情をした玉露は、 子供のようにあどけなく、心からその場を楽しんでいるように見えた。 紅花の視界が揺れる。 輪郭がぼやけ、極色彩が混じり合う。 潤んで、滲んでいるのだと気づくのに時間を要した。 紅花は大きな両目に涙を溜めて、淋しさに耐えねばならなかった。 何故、淋しいのか、泣くほど何が悲しいのかは、分からない。 慌てて身を引いた時の半端な姿勢のまま、まんじりともせず玉露を凝視している少年を、 ふと思い出したように鳳ノ介が振り向いた。 大きな手の平が少年の小ぶりな頭に伸ばされる。 後頭部を包み込むようにされた紅花は、身じろぎできぬ心地のまま、 すうと男に引き寄せられた。 愛らしく珊瑚を飾った少年の頭上から降るようにして、低い美声がそっと囁く。 「玉露(アレ)は俺のものもになりはしないが、お前のものでもないらしい」 当たり前の事実が、惨忍さを帯びて耳の内側にこびりついた。
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