七幕の二・酔いの中

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指先が冷える。 息が塞ぐ。 唇がチリリと痛んだ。 せめて無様にはなるまいと悔しさを耐え忍ぶ敗者の如く、小さくやわい唇を嚙みしめていることに気づきもせずに、 紅花は一心に玉露に見入る。 硬直し、時を忘れたその耳に、突如どうっとした轟きが押し寄せる。 喝采であった。 朗々たる一曲を吟じ終えた玉露を、皆がわっと声や拍手の音にして賛美を送っているのであった。 騒々しさが波及するようにして、紅花の緊張が解ける。 じわりと指先から血の気が、肌に熱気が、戻ってくる。 すると、なにがなし物狂わしい哀惜に似たものが、吐息となって身の外側へ出ていった。 もう何があんなに悲しかったか、痛いくらいに侘しかったかも、定かでない。 囃し立てられ、もう一曲を強請られて、 「もう今宵はこれっきり」と天の邪鬼ぶりを発揮する玉露のケラケラと快活に笑う姿を見るに、 紅花の胸に沸くのは一緒になって楽しい気持ちと、酔っ払いじみた浮かれ気分なのであった。 ふと横を見やると、鳳ノ介がなんということもない顔で手酌している。 紅花と目が合うと、くいと盃を空にして、気まぐれたように席を立った。 「さても目出度き席にて主役を喰らうは無粋の極み。  とは言え無礼講なれば、我が芸の披露も致したいところ」 低くともよく通る張りのある声で口上を述べ、鳳ノ介は玉露を囲う輪に交じる。 これは、これは、と皆が千両役者の登場に多大な歓迎と期待を示す中、 鳳ノ介は長い腕を伸ばすと、猪田に押し付けられたのだろう潮の持っていたザルを取り上げ、 ひょいと頭に被って見せた。 慣れた手つきであっという間に裾をたくし、膝も露わに踊り出す。 「これなるは傾奇者(かぶきもの)の出鱈目音頭。  歌舞伎の門戸は狭けれど、(かぶ)くに資格はありやせぬ。さあさ、皆様踊らにゃ損よ」 見得を切るかに見せかけて、 トットット、とわざと鳳ノ介はつんのめり、手近に居た者の肩を掴んで立ちあがらせる。 思いもかけぬ剽軽ぶりに、どっと笑いが起こり、次いで歓声と三味の音が折り重なった。 日頃、タダ飯にありつくだけしか能のない陰間もどきの通い者たちが、 若さゆえの身軽さからか、手招きに応じて踊りに加わる。 新たな乱痴気騒ぎが始まった。 際限ない歌声、楽の音、騒ぎ声。 夜更けて、闇深い通りに格子窓からぽうと明るい灯を投げかけ、 『梅に鶯』の二階座敷で賑やかな宴は終わりを知らず高揚を続けた。
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